★春休み個人課題

○一週目(2月21日〜27日)
どうすれば「人」を創れるか アンドロイドになった私
石黒 浩 新潮文庫 26年11月1日発行

 著者は、「人間と機械の関わりにおいて、人間のどの要素が重要であるか」を見つける為に、アンドロイドに向き合う事となる。
当時、人と関わるロボットは全く新しい試みであったため、外見から考える必要があった。
そこでまず考えられたのが、人間型アンドロイド(人間酷似型ロボットの事)。
自らの娘に似せたアンドロイドを作るなど思考錯誤を繰り返すうちに、アンドロイドの一種であるジェミノイドを彼は開発した。
これは、アンドロイドと遠隔操作システムを組み合わせたものである。
最初は自らをモデルにして作ったが(HI-T)、より多くの国、場面で実験を繰り返す為に、女性をモデルにしてジェミノイドFを作った。
実際にオリジナルの型をとって製作しているため、彼らを前にした時、全く動かない自分、左右が入れ替わった自分を眺め(鏡だと反転している為)、鏡では見られない部分まで見る事が出来る。
そしてこのジェミノイドを操作する事によって、これを自分の身体のように感じる事を「適応する」という。それには時間がかかるが、ジェミノイドのモデルでなくても可能である。
特に女性、役者(見られる事を意識する人)は時によってモデルより操作がうまいようだ。更にはジェミノイドを介することで、人との接し方にも新たな方法が生まれるのではないかと考える。
もしくは普通の人間より遥かに豊かな表情を持つ可能性がある。
そこでアンドロイドは人をこえられるのかを突き詰めようとした結果、アンドロイド演劇というものを試みる。綺麗な見かけと豊かな表情、引き込まれる語りを組み合わせていわば「最大限の人間」を作ってみよう、と。
実際やってみると、アンドロイドは確かに魅力的であったのだが、綺麗すぎて、人間味を失っているように見えた。しかし対話だけが目的であれば、手足の動きはさほど重要ではないと思いつく。
顔の表情、口、呼吸に伴う、即ち生命感を表現する無意識の動作と腰や首から上が動く事で対話は成り立つ。そこで今度は持ち歩けるジェミノイドを作ろうとした。人間に見えるが、一切不要なものを持たない、最小限の人間の製作にとりかかる。
これは、人間と関わる際に重要な要素のみを集めたものである。その結果、人間のようだが年齢も性別もわからないテレノイドというものが誕生した。
ジェミノイドのように(モダリティが)完璧な人間を作ろうとするとむしろ人間から離れていく。
一方テレノイドのように人間にはみえるが誰かはわからない、必ずしも姿を実在の人間そのままに再現する必要はない。要はそれ以外のモダリティで人間味を出せばよいのだ。
これは能面の原理に似ている。更に、コミュニケーションにおいて、触れる事が重要なのもわかってくる。
最初は不気味に見えていたテレノイドも、抱いて話すことで親近感がわいてくるのだ。
これらが人間とは何かという問いにもぎりぎりまで近付くことが出来るかもしれないと著者は述べている。
(1197文字)

気になることメモ!(感想含む)
・何故最初、こども、そして女性のアンドロイドを作ろうとしたのだろうか。理由が記載されていない(型をとるため身内以外に頼みづらいとはあったが)。
・男性(筆者自身)のアンドロイドを作ったら子どもが怖がる、というが、何故こわがるのだろう。不気味なのだろうか。筆者の表情もあるようだが、どうもそこが引っ掛かる。
テレノイドと同じく、近づいて触ってみたらその恐怖心も薄れるのでは。
・映画『サロゲート』では、成人のサロゲートばかりでこどもや老人のサロゲートはいないという。筆者は、この時期が一番自分らしい瞬間であるからだろうというが、本当にそうなのだろうか。そんなに若者の時の経験や外見は印象に残るのだろうか。
・ジェミノイドとごはんを食べると、一人で食べているより楽しいらしいが、でもこれは対ジェミノイドと一対一でやっている。もし人間多数、ジェミノイド(単体/数体)で混ぜてやったのなら、また変わってくるのではないだろうか。
・人間の美容整形技術とアンドロイドの製作はかなり似ており、人間を治療する道具と機械を作る道具に同じものがあるというのにぞくぞくした。人間が機械的に扱われるようになったのか、逆か、両方か……確かに、よくわからない。
・想像力が、ここでも重要になってくるとは。『本当の美人とは人の想像』。想像力とは一体何物なのか……。
・自分自身を知るには、やはり自分以外の何かの要素がないとわからないものなのだろう、と改めて感じるのだった。





○二週目(2月28日〜3月6日)
ファンタジーの冒険
小谷 真理 ちくま新書 1998年9月20日発行

 人は何故、ファンタジーに惹きつけられ、何故、作家はファンタジーを書くのか。一般にファンタジーという言葉は普及しているが、その定義は曖昧なものである。
80年代以降、このジャンルも細分化が進み、サブジャンルが次々に現れた。20世紀後半から更にその勢いは輪をかけて上昇。
それらを大きく二分すると、「ハイ(異世界)・ファンタジー」と「ロー・ファンタジー」と定義する事が出来る。
その名の通り、異世界を舞台にするものと、現実世界の中で非現実的を表現するのがそれぞれの特徴である。
この本では、いわゆるファンタジー作品を近代形成以降のモダン・ファンタジーの時代との関連性で位置づけ、それらがどのような経緯で生み出されたのかというところに焦点を当てている。
一章では、主に十九世紀のファンタジーについて述べている。
英国のオックスフォード運動、ロマン主義の登場も相まって、今まで異教的なもの、非合理的なものと思われていた妖精物語が再興。
ジョージ・マクドナルドやルイス・キャロル、ウィリアム・モリスが活躍した。
二章では第二次世界大戦前、米国のジャーナリズムのただなかで形成されたラヴクラフト・サークルと、
米国のアカデミズムのただなかで育まれたインクリングスが、ジャンル・ファンタジーの原型を作り上げた事が書かれている。
同じ世界を共有したいと願う教作者の登場である。
三章では、アーサー王物語を取り上げている。 これは、六十年代のカウンター・カルチュアと大きく関係しており、メディア・ミックスの先がけともいえる。
四章では、七十年代のフェミニズム運動と女性ファンタジーの関係性、特に魔女文学と呼ばれるものについて考察されている。
今やその社会的な文脈で解釈するより、ひとつの異世界構築として再需要されるべきと最後に付け加えている。
五章では、コンピュータ時代に入り、ゲーム等のハイテク勃興とファンタジーの創造力がいかにして結びついたのかについて書かれている。
ひとつの世界をまるごと作ろうとすると、その分情報量も増えていく。こうしてファンタジーは大量生産されていく。それに伴い、多くのサブジャンルも生まれた。
最後となる六章では日本のファンタジーの現在をまとめている。
やはりゲームは強い影響力を与えており、様々なメディアによって育まれている。加えてハイ・ファンタジーとロー・ファンタジーについても言及している。
前者は現実との不連続な世界で展開されるものであるからこそ、より強力に現実世界の問題を鋭く打ちぬき、寓話性に富むものが多い。
対して後者は社会的な問題などを追いながら、現実世界こそが精密に作られた幻想世界のように描写されるように思える。
現実と幻想の境界も、もはや曖昧となり、リアルなものの対比として捉えられていたファンタジーという概念が、
それ自体リアリティ同様変貌をきたしているのではと著者は最後に述べている。
(1188文字)

気になったことメモ!
・確かにファンタジーって何なのだ、と問われたら説明するのは難しい。なんとか説明しようとするなら、「なんでもあり」なもの、と自分は言ってしまう。物理法則だって歪められる。いわゆるチート。

・かたちがわからないのに、多くの人が惹かれるファンタジー。不思議だ。ところで、似たような話をどこかで聞かなかったか?

・逆のものを考えることで、そのものが一体何ものか、と追及する手法もあった。ファンタジーについて考えているうちに、現実とは何なのか、と考えるように?(ファンタジーが持つ寓話的な特徴:現実から不連続な世界にお話の基礎を置きながら、より現実的な問題を逆照射する) しかし境界が曖昧になっているというなら、この方法もそろそろうまくいかなくなりそうだ? ⇒ ロボットについて考える際、人間について考えることでより明確に浮かび上がる、と前週にあった。

・この本には具体的な作品が数多く述べられている。ほぼ知らない……。唯一、読んだこと(かじったこと)があるのは、ラヴクラフトのクトゥルフ神話辺り。ひとつの神話を元に、色んな人が物語を作り上げ、発展させていくというのはすごく興味深い。クトゥルフ神話は「Call of Cthulhu」としてテーブルトークRPGも存在する。こちらについても個人的に気になるところだ。更に個人的なことで申し訳ないが、ダンジョンズ&ドラゴンズ(D&D)も気になる。よく名前は聞くのだ。こちらについても詳しく見てみたいところ。(RPGの原点であり、TRPGの原点ともいえるらしい? もしかしたらこの先の個人課題でも見かける可能性が)
⇒これを考えるには指輪物語などの作品についても見ておく必要がありそうだ
⇒ファンタジーにプレイヤーが介入する?
⇒表現者と受け手が同時に存在する(?)ことのはじまり?
⇒共に世界を作り出す(クトゥルフ神話/ラヴクラフト・サークル)
⇒RPGよりTRPGのが古い?

・こどもの概念が現れた際、彼らの成長に物語の必要性が論じられる、道徳的教訓話⇒児童文学⇒絵本

・サブジャンルが生まれるとき、彼らは先人にそのルーツを見出そうとし、自らの作品が初出ではないと主張するそう。何故だろうか?

!ゲームの革新はファンタジーの異世界創造の概念と深く結びついている⇒コンピュータ時代⇒「ハイテクによって変貌した世界観」

!世界をまるごと創作しようとする姿勢は、物語の長編化を促進し、シリーズものへの拡大再生産へと手を貸す⇒TVゲームの世界は、この世の者ならぬ異形をよりリアルに体験させるもの

・ファンタジーが現実世界を喰らい始めているのでは……?

・想像していた通り、メディア・ミックスの影響ははかりしれない。

・人間としての「わたし/主体」の危機がもたらされているのでは? とあるが、ここでもそんな話題へ繋げることが出来てしまうのか。





○三週目(3月7日〜13日) ぼくたちのゲーム史
さやわか 星海社新書 2012年9月25日発行

 昔ゲームをしていた人たちがゲームをしなくなっていく。それはつまり、今と昔でゲームの在り方が変容しているという事だ。
もちろん全てが変わったわけではない。 ならば現在、何を「ゲーム」と呼ぶのか。
筆者は、変わらない部分として「ボタンを押すことで反応すること」、つまり自分が介入することで一見変えることができないような作品内容を操作したという感覚、
変化する部分として「物語をどのように扱うかということ」の二つに着目しながら歴史を辿っている。
かつてひとつのボタンの役割はひとつだった。それが『スーパーマリオ』でボタンを押す(ジャンプする)事は様々な意味を持つ。
この時代、「単純」なゲーム以上のものを求められる風潮であり、RPGの要素を持ったゲームとしてこの作品は開発された。
日本ではこれを皮切りに物語性を強調したものが多くなるが、海外では変わらず自分自身が世界を探索する要素が重視される。
80年代末になるとゲームのジャンルは更に多様化し、多くのゲームが生まれ「誰もが同じゲームをしているというわけではない」事態となる。
コンピュータゲームから家庭用ゲームへの主役の移行もこの時期だ。ここにも物語性を重視したところが大きい。一方、ゲームセンターは徐々に衰退していく。
風営法による規制、家庭用ゲームの躍進、不況の影響が挙げられるが、やはり家庭用ゲームの台頭は大きかった。その中で『ストリートファイターU』が現れる。
これはプレイヤー同士の「対戦」という要素を設けたことで、ゲームの外で物語を生み出したという点が反響を呼んだ。
そして、次世代家庭用ゲーム機の競争を経てグラフィックや音楽の質が向上、日本のゲームが描く「物語」は更に変容していき、迎えた1997年。
この年は「物語をどのように扱うか」という点の試行が、頂点に達する年であり、これ以前と以降ではゲームは大きく変わるという。
物語の扱い方を模索したゲームが次々生み出されるが、日本国内でゲームが売れなくなる。
丁度インターネットが普及する頃で、ゲーム雑誌も衰退していく中、同人ゲームが注目された。
この低迷期に、『ポケットモンスター』という、プレイヤー同士の通信交換によるゲーム外部の「コミュニケーション」に着目した作品が発売される。
海外ではプレイヤーが内容を容易に改造する「MOB」を容認することでゲーム内の世界を発展させている一方で、
日本のゲームは「ゲームの外部=コミュニケーション」を充実させプレイヤーを「ゲームの内部」に触れされようとしない。同時に二次創作には寛容である。
そしてネットゲームを経て、DSやWiiに見られるスポーツゲーム等のカジュアルゲームが注目される。
携帯等でもゲームが出来るようになり、今やゲームとは無縁だった産業もゲームの世界へ足を踏み入れている。
同時に「現実のコミュニケーションを充実させるネットゲーム」も日本内では人気を博している。
現実から離れているはずのゲームが現実に寄り添っているように見える現在。従来の価値観を覆したものが次のゲームとなり、それらは「ゲーム」であることを本分としているのだ。
(1271文字)
!おもったこと

・情報量が多い! そんなゲームがこんなところで出てくるのか、という時代背景などがそれとなくわかったような気がする。本当に、概要を知った気分。

・これは内容とは関係ないが、文章がすごく特殊なレイアウトであり、引用部分の文字が大きくて少し抵抗があった。

・日本のゲームは物語性を強調する方向に進んで行ったが、海外のゲームは探索をメインとしている。何故なんだろう。
元々はどちらも、自分自身が探索することを強調していた。読んでいると、初期のゲームほど、売り文句に「キミが〜」と書かれている。さて、それを分けた決定的な理由が、わからない。文化?
 80年代日本は家庭用ゲーム機よりパソコンの方がスペック的にも優れていると捉えていたようで、その分ゲームには特殊なものを求められていたらしい。
裏技ブーム、物語性、謎とき要素などなど。そうでもしないと売れない。それが影響しているのかも。
・一人称視点(海外ゲームのような)と三人称視点。ドラクエは一人称視点でありながらキャラクターによる台詞によって日本的な物語性の強いゲームを作っていった。これも火つけ役になっている可能性。

・同時に、ゲーム内容を改造する事に寛容な海外に対して日本ではそれを拒み、外部でのコミュニケーションに力を入れているところも興味深い。同時に二次創作に寛容であるというのも興味深い。(どちらも法的には危うい立場ではあるが!)

・結果、日本人は物語が好き! なんで? 日本ではロールプレイングの人気が根強いが、海外はそんなことはない。不思議だ。(純粋な疑問)

!ロールプレイングゲーム(テーブルトークRPG、D&D)の影響を受けたのが『指輪物語』というのは前週のテーマで知った事だが、実はアドベンチャーゲーム(コロッサル・ケイブ・アドベンチャー)にも影響を及ぼしていたという。この作品強すぎる。やはり読むか観るかをしておくべきか……。

!1997年頃に色々と変動があったようで、インターネットも台頭、同人ゲームも登場したこの時期。「CardWirth」も98年に出てきている。なるほど……ちょっと興味深い。この時期はプロと同じような環境が割と容易に再現出来たらしい。ゲームを扱う人々のコミュニケーション。作品自体を作って交流したり……わりと自分で何でも出来てしまうというのが良かったのかもしれない。それを交流の材料にしてしまう。……カードワースってなんなのか?(ひとによって楽しみ方が違う?)
・ゲーム外部のコミュニケーションについて それが新しいものだったから、か?
 ポケモンが売れた時、通信ケーブルも売れたという。それがなかったら通信が出来ないのだから。
 今は通信ケーブルがなくとも通信出来てしまう。ましてや相手が近くにいなくとも出来てしまう。インターネットの普及とゲームは絡み合っているような。
 すれちがい通信。相手が互いに認識していなくとも通信が行われているようなそういうシステム。これも一種のコミュニケーションを意識したゲームの在り方……?

・『高機動幻想ガンパレード・マーチ』でみられた、ゲーム内で世界の謎が全て解明しないというのがすごく興味深い。
二周目以降、世界の謎に関わる選択肢も追加されているようだが、それらすべてを拾っていっても、全てがわかるわけではない。
それで、作品について、開発者とプレイヤーが世界の謎について問答を繰り返す掲示板が存在したらしい。
この状況がこちら的にはかなり面白いなあと思っている。
世界観を容易することで、インターネットを中心としたコミュニケーションを拡大させたのが斬新だし、やってみたくもある。(尚、この作品は知らない)

・当のゲームをしない人がキャラクターや世界を愛する状況も生まれている。東方とか……。

・カジュアルゲーム。スマホでたくさんのアプリゲームが出現したことによりその流れは強くなっている予感。




○四週目、五週目(3月14日〜20日)(3月21日〜28日)
ストーリーメーカー 創作のための物語論 
大塚 英志 星海社新書 2013年12月25日発行

著者は、物語の文法の一番の基本として二つの事項を挙げている。
それが、「行って帰る」ことと「欠如したものが回復する」ことである。
前者について、これは必ずしも元いたところに戻るというわけでは必ずしもない。
作品世界の中にひとつの「境界」(これは目に見えるものでなくともよい)があり、
そのラインを越えて、主人公が「こちら側」(現状)から、「向こう側」(未知なるもの)へ行き、「帰ってくる」ことの中に「物語」の一番の基本があるという。最も単純な物語ともいえよう。
「行って帰る」物語が、自分たちが今、この現実にあるということの確認の手順として、その過程を通じて人が少しずつ大人になっていくために不可欠である経験ともいえる。
更にこれに付け加えると、「欠如」の状態にある主人公が、「欠如の解消」に向かう為に「境界」を越えて、非日常の傍に「行って帰る」ことで元の状態から変化している事にもなる。
物語は、「境界」を「越境」することではじまるとでも言い換えられるだろう。
ここで、ロシアのウラジーミル・プロップによる、「物語の構造」という考え方の成り立ちについて触れている。
1920年代、映画におけるモンタージュが注目された事もあり、ある対象物を構成する最小単位についての考えが広がっていた。
プロップはいわゆる「魔法民話」における、最小単位を「機能」であると考えた。
「機能」は、登場人物たちの行為によって定義され、物語の進行に果たす作用のことをいう。それらの配列のされ方を「構造」と、彼は定義した。
そして物語には、たった一つの構造しかない、と結論づけたのだ。それが、31の機能として列挙されている。
これは彼が定義した8種類の登場人物によって行われる。その中にも、「行って帰ってくる」ことと「欠如の解消」が含まれている。
更に彼はこう付け加えている。これら31の機能全てを一つ残らず備えている必要はないが、機能の景気順序はこの通り行われる、と。
他にもオットー・ラックが見出した、英雄物語における共通の枠組みや、ジョセフ・キャンベルの「単一神話の構造」、更にクリストファー・ボグラーの「ヒーローズ・ジャーニー」の考え方にも、そういった傾向がみられる。
こういった物語論的に物語る試みをしたのが、中上健治の『南回帰船』。
この話は未完ではあるが、この物語がそういった試みをしていると宣言されている以上、物語構造を照らし合わせ、結末をある程度推測することは出来る。
F・ドビゼールが言うには、これらは抽象的な構造を示した上でそこから、構造は同一ながらも物語としての外見は全く異なる物語を創作させる。
ハリウッド映画は、「ヒーローズ・ジャーニー」の考えを元にかなり極端に「単一神話化」している。
要はこういった「物語の構造」を「応用」することが少なくとも産業として可能であり、その汎用性や使い勝手は相応の水準にあると著者は主張している。
(1195文字)
!考えたこと(内容よりも感想に近い)
・結構型を作っている本ではありそう。ただし、納得いかないわけでもない。

・自創作をこの型におとしこんでみると少し面白いものが見えてくる予感。

「欠落したものが回復する」

「行って帰る」ゲーム系ファンタジ―の基本
・再び「指輪物語」の話題を見た。この作品、そろそろ見過ごせないのでは。
・行って帰る、の繰り返しでゲームが出来ているのもありそうだ。システム的な意味で。
・行って帰る≠おなじ場所に帰る
←いまいるところの明確化 向こう側、未知の世界へ

日常と非日常、境界線。これは他のものでもありそう?
こういう対極するもので明確化するというのはずっとやっていることでもあると思う。
ロボットと人間。ファンタジーの話における現実と非現実。

・行って帰ることは、一種の儀式(成長するための)
  成年式とか。

・この「境界」というのが、目に見える必要はないという。目に見えないのなら、どれが境界なのかわからない感じもする。けれど……?
 なにはともあれ、何かしら自身が変化するのが含まれるということか。

・色々な型をひたすらに紹介される文章が続く。なるほどなあと思う一方で、これがどう応用されていくのだろうと考える自分がいる。
この構造を気づかれないように変装し、語っている物語は結構あるのだと思う。

・全ての登場人物に、キャラクター性ではなく物語の進行における行為としての役割を考えているというのが、ちょっと面白くて私的には好きだったりする。
こうみていると、物語のためのキャラクターなのだな、と……
そういえば、キャラクターのための物語、を考えている人もいる。どうちがう? それともそう言っているだけで、根本的には違う?

・物語論的に物語ることはきっととっかかりとしてあってもいいと思う。でもそれからどうするかはまたその人の手に委ねられるのではないかと思ったりもする。

・「書く」という行為を物語の文法という規則性に還元してしまう彼らの態度と
・「私」という存在が特別なものであることを立証するために書くこと
・・・実は何の為に自分で創作をしているのか、自分でもよくわかっていない。気づけばやっていたのだから、理由がわからないのである。

・内容にあんまり関係ないのだが、「ヒーローズ・ジャーニー」の話の中で、『バイオハザード』(映画)の話があり、興味はあるけどみていなかった話のひとつである。
ゾンビ映画も最近気になるところなので、こういうのも後々みてみたいと思っている。

メモ
・プロップの31の機能
「主人公」:行って帰る人
「偽の主人公」:主人公より先に帰って自分の手柄だと主張する人
「敵対者」:敵
「贈与者」:主人公に重要なアイテムをあげる人
「助手」:主人公を助けたりする人
「王女と王」:主人公の行動のきっかけになりそう
(「対象者」:主人公がなにかの対象にする人、しばしば王女のこと)
「派遣者」:ミッションを発動させる人
「追跡者」:物語の後段で主人公を追いかける役割を持つ

⇒序盤
 不在⇒禁止⇒違反⇒情報の要求⇒情報入手⇒策略⇒幇助⇒加害あるいは欠如

⇒本筋
 派遣⇒任務の受諾⇒出発⇒先立つ働きかけ⇒反応⇒獲得⇒空間移動⇒闘争⇒標付け⇒勝利⇒加害あるいは欠如の回復⇒帰路
⇒その後
 追跡⇒脱出やじるし気づかれざる帰還⇒偽りの主張⇒難題⇒解決⇒認知⇒露見⇒変身⇒処罰⇒結婚ないし即位




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