<シンシン>のはるやすみ

<シンシン>は春休み6週間で4冊の本を読みレポートを作成しました。
以下、そのレポートと春休みの反省を記しています。

@鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』岩波現代文庫 2001年
A鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史』岩波現代文庫 2001年
B鶴見俊輔・重松清『ぼくはこう生きている きみはどうか』潮出版社 2010年
C鶴見俊輔・高橋幸子『教育で想像力を殺すな』明治図書出版 1991年
D春休みをふりかえって

『戦時期日本の精神史』レポート

本書は、1931年から45年までの戦時期の日本の精神史の考察である。我々はこの期間を第二次世界大戦や太平洋戦争などと呼び、そのなかで満州事変や上海事変、日支事変、そして真珠湾攻撃や大東亜戦争が起き、加えてそれらはバラバラに起きたものではないことを、歴史の授業において既に習い知っている。しかし1931年当時、戦争機関に子どもとして育った鶴見氏は満州事変や上海事変、日支事変は、すべてきれぎれの事変として、繋げて考えないように教育されたのである。それが当時の日本政府の意図であり、これは戦争責任の問題と関係している。これに関して鶴見氏は「太平洋戦争あるいは大東亜戦争をアメリカに対する戦争とみなして、この部分はまずかったというふうにとらえる戦争観では、この戦争の構造をとらえることができないと思うからだ。これでは、日本人にとって戦争の責任がぼかされてしまう」と述べており、これは、日本が終戦ではなく敗戦として、負けた戦争として戦争について考えていくべきであるということである。このことから鶴見氏はこの戦争を15年戦争と呼び、歴史上の事柄としてひとつの繋がりのあるものとしてとらえている。 また鶴見氏は戦時期日本のファシズム支配下の日本人知識の軌跡と通して「転向」という言葉について言及している。この転向の事実に近づくための道筋のひとつとして、日本共産党が、党員から転向者が出てきたというものがある。これは現在の党から離れたものは転向であり、裏切りであり、さらにまた現状について科学的把握の失敗であるとみなすものである。日本共産党は、この転向という現象を1930年代の日本に起こった現象をさすだけにかぎり、それは絶対主義的半封建的資本主義的天皇制と共産党員との闘争のなかで起こった事柄であると考えている。この場合の転向とは、天皇制の権力に屈服して1930年代の日本の状況の科学的把握に失敗した急進主義者たちの間違った考えをさすものである。一方吉本隆明は、転向について、上記した見方とは別のアプローチをとっており、転向とは、近代日本の社会構造に自分自身を投入して考えることに失敗した結果、知識人のあいだに起こった観点の移動であると考えた。この定義から鶴見氏は、転向について、国家の強制力行使の結果として、個人あるいは個人の集団に起こる思想の変化であるととらえている。日本共産党が定義していた転向=裏切りについては、裏切りという言葉を用いてしまうと、その誤謬のなかにある真理を掬い出す機会を失うことになると述べている。鶴見氏は日本の戦時精神史に近づくときのやり方として、転向に注意することを本書で述べており、転向研究に価値があると考えているのは、まちがいのなかに含まれている真実の方が、真実のなかに含まれている真実より大切であると考えているからである。我々は間違いを通して得ることのできた真理こそが、役にたつ真実の核心をなすものなのである。鶴見氏は論語「過を観て、すなわちその仁を知る」を引用し、転向の結果として現れたさまざまな思想の中から実りあるものを明らかにしたいという希望をもっている。 15年戦争の間に日本を支配していたものは軍国主義とファシズムであり、政府は日本自身の内部で社会改革を行って困難を解決する方法を避け、軍事力によって国外に進出する道を選んだ。これが政府によってとられた国策であり、この国策を理論によって正当化することが、政府が日本の知識人に課した任務であった。この目的のため政府は投獄を含むさまざまな強制力を用いたが、一方で方法的に有効であったのが、日本人にとって長期にわたる伝統となっていた鎖国性である。日本は、周りを海に囲まれた島国であり、大地の上に引かれた国境線によって囲まれた経験がないため、民族としてのまとまりが努力することなしに、団結することができる。同じ言語を話し、同種の身振りの記号体系によって結び付けられているということで、自己完結的な性格を生み出した。これが日本人の鎖国性である。そして世論は、隣組制度を導入したことをきっかけとして、流言と自由な思想表現を統制し、画一化していくのである。 日本の伝統は、あらゆる場所とあらゆる時代を通して同じ仕方で結びつけるような、人間を縛るような普遍的断定を避けることを特徴としている。この消極的性格が、日本思想の強みであり、これが西洋諸国の知的諸国の基準においてあまり尊敬されてこなかった、知性のあり方なのである。 本書を読むことで、伝統的な思想に加え、西洋の華族制度、大学入試制度の導入、15年戦争のなかでの共同声明や転向により変化する戦時期の日本人の思想を、明治維新から敗戦の流れのなかで学ぶことができた。

『戦後日本の大衆文化史』レポート

鶴見俊輔『戦後日本の大衆文化史』(2001、岩波現代文庫)は、カナダのマッギル大学で著者が1980年1月から3月にかけておこなった講義を底本にしたものであり、『戦時期日本の精神史』(2001、岩波現代文庫)の続編である。 全9篇からなる本書の冒頭の2篇は「占領―押しつけられたものとしての米国風生活様式」「占領と正義の感覚について」というテーマにおいて、15年戦争が終わり、その後の米国による1945年から1952年にかけての占領時代が、どのような影響を日本にあたえたか論じている。前者のテーマでは、食料、男女関係にかかわるライフスタイル、そして正義の感覚について考察している。特に男女関係にかかわるライフスタイルについて、占領軍は日本人に大きな変化をあたえており、戦時中は公開されていなかったアメリカ映画が戦後日本に大量に輸入されたこと、加えて米国の兵隊が駐屯しているような都会では、日常生活を送るアメリカ人のしぐさを街角に見ることができたことが理由として挙げられる。特に男性と女性が肩を並べて歩くことはこれまで日本人にとって尋問にあったりいじめられたりする対象であったが、男女が肩を並べて歩くことは今日では一般的なことである。また正義の感覚については、本書23頁で「米国政府が占領を通して日本に植え付けようとした新しい正義の感覚は、これに従うのが当時の敗戦国民としては必要だと考えられたとしても、それを心から受け入れる風であったかどうかは疑わしい」と述べているように、占領軍の指し示す新しい価値基準が、世界人類にとって受け入れられる正しいものであり、普遍的価値基準になるというのは受け入れがたいことである。「普通の日本人が征服者を見る目は、征服者が自分たち自身を見る目とは違っている」と鶴見氏はまとめている。そしてこの正義の感覚については、第2篇で戦争裁判に焦点を絞り論じられている。 戦争裁判とは1946年5月3日に始まり、1948年11月12日に終わった極東国際軍事裁判のことである。戦後で情報を伝えるラジオがほとんどない当時、裁判の情報は主として人の口を通じて噂話のように伝えられ、しかし南京虐殺や日本軍によって行われた様々な残虐行為が裁判を通じて日本国民に知れ渡ることとなり、また日本の旧指導者たちを文明の名によって告訴すること、つまり日本の旧指導者と日本が行ったことは文明からはずれた無知で古い価値観であること、旧指導者のうち7人が死刑に処されたこと、そして天皇は法廷に呼ばれなかったことも同時に日本国民は知ることとなった。そのため当時の戦争裁判に対する見方は、現在のものとは異なっていることを鶴見氏は述べている。天皇は法律上の理由ではなく政治上の理由で軍事法廷には呼ばれず、これにより戦争裁判は、戦勝者の祭壇に生贄の羊=旧指導者たちを捧げる儀式としての性格を与えることになる。戦時中のすべての命令が天皇の名によって下されていたためである。しかし一方で天皇が戦争裁判に呼ばれなかったということは、日本国民の大多数によって安心感を与え、同時に、この事実は戦争責任に対する裁判をするという論理そのものの否定であると感じさせたのである。鶴見氏はこの二重の意味づけを、戦争裁判に対する日本人の反応の最も重要な部分であるとしている。占領軍が無条件に天皇を残すことによって、日本では支配する個人がその決定に対して責任をとらなくてよいという信念が成立し、しかしこれによって戦争中の政治責任について日本人のもっている感情は、運の悪い人たちだけが捕まって責任をとらせられたという考えと結びついたぼんやりとした不信の念となっている。実際、太平洋の様々な諸領域で行われた裁判は、本来であればそれらの国々の言葉と日本語をともによく知っている人を通訳として行わなければならないものを、これらが大変貧弱であったため被告にとっては理解することのできない理由で多くの人たちが告訴され、そして何人もが死刑に処されたのである。 そのあとの章では、戦後日本の個別風俗として「漫画」、「大河ドラマ」、「連続テレビ小説」、「紅白歌合戦」、「流行歌」などを取り上げ、論じている。これについて鷲田清一は「山の裾野の自分の出会った一点から考えていくというやりかた」と鶴見氏の『限界芸術論』から抜粋し、鶴見氏の思考を「限界哲学」と名付けている。これは「まがいものであってもいい。まがいものであっても、それをとおして今、自分の言いたいことを、ともかくも言いつづけていく」「戦後の日本の純文学と大衆文学、右翼と左翼との対立を見わたす視野がここにひらけている」という思考からである。江戸、戦前から占領期を経て、客寄や唱歌、広告、漫画、サークル活動といった鶴見氏のいう「山の裾野」に着目し、今日にいたっては懐かしいとされるピンクレディーやがきデカにも焦点を当てることで、戦後の大衆に寄り添った文化史のまとめとなっている。

『ぼくはこう生きている きみはどうか』レポート

『ぼくはこう生きている きみはどうか』(2015年 潮出版社)は、哲学者鶴見俊輔と小説家重松清の対談をまとまたもので、全5章からなっている。1、2、3、5章は日露戦争後の日本における教育、家庭、友情、師弟に関する変化や問題点を、4章では鶴見俊輔の姉鶴見和子を取り上げ、老いに関して対談している。 まず前者の、日露戦争以後の日本における教育、家庭、友情、師弟に関する変化や問題点に関して、「共同体」が日本社会に無くなってきたことを根本の原因として挙げられる。本書ではこの「共同体」を「ゲマインシャフト」と呼んでおり、ゲマインシャフトはドイツ語でいう共同体で、地縁や血縁などにより自然に発生した社会集団を指している。日露戦争に日本が勝利した1905年以降、日本にも大学が設置され、それぞれの学校に入学試験が課されるようになった。すると、社会全体で学校の成績や学歴によってその人がエリートかどうかを判断し価値基準を決めるようになった。鶴見俊輔は若槻礼次郎の、両親がいない彼を支援し東京に行かせたのは郷土の人々であったことを例に挙げこれを論じており、この郷土の人々が行った支援こそがゲマインシャフトであるとしている。また西郷隆盛や坂本龍馬、大久保利通なども挙げ、彼らが郷士や下級藩士であったのにも関わらず、優れた指導者となったのは特徴のひとつとしてもゲマインシャフトを挙げている。一国のリーダーシップが共同体から生まれ、共同体の空気をもって、というのは日本にしかない特徴である。加えてエリートについて、夏目漱石や森鴎外などを例に挙げて現在の日本人留学生と比較している。本来留学とは自分が出した問題について追究するためにするものであるのに対し、現在はおもにアメリカ人が出した問題に対し有力な仮説を持ち帰り、形を変え証明するためだけのものとして問題視している。これでは国家を支える本当の意味での「人材」は生まれず、教育が「箱モノ」になってしまうとしている。「箱モノ」の教育は子どもたちを楽に教育し、また管轄しやすいものであるが、この箱におさめてしまうことで、思索を前進させることを阻んでしまっているのである。思索を進めるには箱からこぼれることがその始まりであるとしているが、現在の教育制度ではこれは難しくなってきている。そしてこの背景には1905年以後の入試制度導入、またそれに伴う成績重視の価値判断が原因であると考えられる。 家庭、友情に関しては上記したゲマインシャフト、共同体の消失により浮上した様々な問題を挙げている。家庭に関して、鶴見俊輔は自身の経験や文豪などを例に挙げ、血縁関係にない人物(法律でいう「その他の関係」)が家庭内に入り込むことによって家庭が生き生きとしてくることを論じている。共同体が幅広く、また上辺だけのものになること、また学歴社会が進むことによって、親子関係がより良い意味ではない密着性が生まれ、子どもが圧迫感を感じてしまうことを問題視している。「その他の関係」によって子どもの発散場所を作ってあげることが望ましく、核家族や少子高齢化が進むことによってそれは今後ますます重要になってくるのである。これは子どもの友情に関する問題とも繋がっており、「その他の関係」が子どもを支えてあげることが出来れば、たとえ子どもが学校のなかでいじめに遭い孤独になったとしても、現代のように自殺に繋がる可能性は低い。また「路地の消失」も、友達ができない等の現代の子どもならではの悩みを生むきっかけになったのではないかと挙げている。「路地」とは日本固有の子どもたちのための遊び場で、年齢差も点差もなく遊べる場所のことで、そこには年上の者が年下の者を気遣い、柔軟に遊びのルールを決め皆で遊ぶ、というような文化があった。しかし現代ではその路地は消失し、もともとの決め事に自らが沿っていかないとその集団から排除されてしまうという問題がある。少し前に「KY」=「空気を読めない」という言葉が若者たちの間で流行ったように、周りにうまく合わせなければ除外されてしまうが、今の子どもたちの社会なのである。 本書を読んで、一貫して感じたことは、「共同体」の重要性である。それは現代の地域のコミュニティなどとは性質が違ったものであり、お互いがお互いを認め合ったり、柔軟に受け入れていくものである。共同体とは、大衆のなかから優れた指導者を出すことができたり(これは学歴社会のなかから生まれた現代のエリートとは異なっている)、子どもが家庭のみならずその共同体全体で上辺ではなく支援することができる。現代とは違う狭い共同体だからこそ、お互いをよく知ることが出来るため、そこに信頼関係が生まれるのである。そうした共同体は今やなくなり、私自身も「良い大学に入りなさい」と両親に言われ、家庭内で圧迫され上京した身である。共同体の崩壊と、成績重視の教育制度は、今や日本社会において見直さなければならない問題である。

『教育で想像力を殺すな』レポート

『教育で想像力を殺すな』(1991年、明治図書出版)は、全11章をそれぞれの人物が当時の教育について考えたものである。執筆者のなかには大学生や手地学者、公務員、主婦、工員などさまざまである。今回は本書をもとに現在の教育について考え、考察していきたい。 まず1章の、三室勇著「人を殺さないですむ想像力」について、この章で彼は、現代の教育について、現代の高校進学率が95%という数値は、高校くらい出ていないと食べていけないという恐怖心から生み出された数値である、と述べている。この文章が書かれたのは1991年のことであるが、現在では高校進学率は全国平均で98%となっている(文部科学省「学校基本調査」よりデータ引用)。また高校卒業後の進学率については、昭和末期に比べると約15%上がっており、1991年は特に大学進学率が上がってきた年であり、その数値は2015年現在でも若干の成長がみられる。しかし、大学、短期大学、専門学校の中途退学者数は日経ビジネスの調査によると例えば1994年には3万人であったのが2004年になると5万人に増えているという結果も一方である。進学をしなければ食べていけない、というのはつまり、進学をしなければ就職が出来ず、就職が出来なければ稼ぐことができないため、結果的に生きていけない、ということであると考えられる。働くにはある一定の学力や成績がないといけない、ということである。そのため進学率がどんどん伸びたと考えられるが、一方で中途退学者数も伸びている。これは、学生もとい子どもたちが、成績や能力主義に追い込まれ過ぎた結果なのではないかと考える。「大学に入りさえすればよい」「より知名度、偏差値の高い大学入れ」、子どもたちは決まり文句のように両親や教師を含んだ大人たちに言われ、しかし大学に行く意味や勉強をする意味を問うと答えてくれる大人は少ない。「就職に困る」などの理由は表面上の理由でしかなく、現に大学に行かなくとも生きていける。では何故大学に行って就職をするのか。私は社会的地位を獲得するためではないかと考える。履歴書には必ず学歴を記入する欄があり、また若者同士の集いにおいても、相手のプロフィールを知るためにまず学生かどうか、続いてどこの大学かどうか、というやりとりが多くされる。もはや学歴は自己のアイデンティティになりつつあるのではないか。「大学に入るための勉強」を強いられ、そこから自由になった学生は、自由に生きる生き方を学んできたわけではない。そのため、その強いられて行った結果手に入れたものを自己のアイデンティティとするしかない。これは、三室氏が引用していた「教科書がそっくり頭の中に引っ越しをするような」教育の末路なのかもしれない。 6章「赤毛のアンを手がかりに」において、鶴見俊輔が「すぐれた教師は、ペスタロッチにしても、芦田恵之介にしても、小学校でビリに近いところにおかれていたこどもたちの中からそだった。教室の中のその位置が、教師に適切な、こどもへの想像力をやしなうにふさわしい温床をあたえる。」と述べている。現代の教育はどんどんデータによって統制管理されてるようになってきており、教育の場は学校だけに留まらず、個人塾や集団塾にも拡がり、今や塾に通っていない子どもの方が珍しい。実際に神奈川県川崎市のある中学校では「この辺りは君たちも塾で習っているであろうから、学校ではやりません」と宣言した教師もいたほどである。塾の歴史は平安時代にまで遡ることができるが、現在のような学習塾形態が出来上がったのは戦後の1960年、いわゆる受験戦争が始まりだした頃のことである。しかし一方で鶴見氏が述べている「すぐれた教師」というのは当時は受験戦争を勝ち残れるなどと思えない人物である。彼のいう「教室の中のその位置」というのは、勉強においてはあまり教師や同級生の目を引くことがない位置であると考える。つまり、管理統制されない位置、である。その点では管理統制下に子どもを置いている現代とは真逆の位置といえ、また管理統制することが必ずしも子どもにとって良い影響を与えられるかと言えばそうではないことを示唆している。成績だけでその子自身を判断してしまう、前段落でもあげた成績、能力主義は子どもが彼、彼女らしくのびのびと生きる弊害になっているのではないか。成績だけで良し悪しをつけられた子どもたちが大人になり、今度は自分たちが子どもを教育する立場となったとき、本当に子どもに必要なものはなにか、というものが分からなくなってしまう。答えがひとつである勉強の仕方、試験によって点数をだし成績をつける教育は、思考力を奪い続け、やがては周りに流されやすく、マニュアルやデータを信頼し過ぎる人物を完成させてしまう。そのため、教科書を暗記させる教育ではなく、考える教育にしていくべきなのではないかと私は考える。

春休みをふりかえって

全6週かけて4冊の本を読むことを目標にし、なんとかすべて期限内に読み切りレポートを作成することは出来たが、前半の2冊は「提出」することが目標となってしまい、理解が不十分なままレポートを作成してしまった。そのためレポートの内容としてもまとめきれておらず、分かる範囲を都合よくまとめたものになってしまった。後半の2冊からはそれに気が付くことが出来たので、読んで理解することを意識し読み進めることが出来た。春休み序盤の計画を立てているときは、計画的に進められると思っていたが、思い通りに予定が進まず、結局提出期限ぎりぎりまでレポートをやることが多かった。自分の力を過信していたのだと思う。1冊の本に対してもう少し長い時間をかけて向き合っていけばよかった。 前半の2冊に関しては本当に「提出」が目標となってしまっていた。バイト先の後輩に「その本面白そうですね」と言われたことをきっかけに、中途半端に取り組むことは体力と時間の無駄であり、学ぶことを楽しんで読んでいかなければ何も身につかないことに気付くことが出来た。3冊目の週は海外に行ってしまったので、やっぱりバタバタしてしまったが、課題と向き合う自分の姿勢は変わったように思う。「くるたのしい」課題の取り組み方を再確認できた春休みであった。