シャンクス
~口頭試問振り返りレポート~

 私は第4回ゼミ内発表で先生から、ディズニープリンセス作品〈註1〉を題材に、ステレオタイプやこれまでな されてきたディズニー批判では語ることのできない男女の関係を探るというテーマを頂いた。(第4回発表振り返り レポートはこちら。 http://www1.meijigakuin.ac.jp/~hhsemi13/index-egg/egg-works/egg-works-frikaeri/frikaeri_shankusu4.html ) こうして他の誰でもない自分が執筆する論文のテーマを人に決めてもらう結果になってしまったが、前回の振り返り レポートの最後にも述べたように、ここから先は自分でよく考え、テーマを自分の問題としてしっかり取り組みたい と考えていた。しかし特に12月の上旬ごろまでの卒論に対する私の姿勢は、決して良いと言えるものではなかった。

 私の論文では関係を探る上での根拠となるため、アニメーション作品を自分の解釈を加えず視聴した通りに把握 し記述していくことが必要であり、論文においてもっとも重要な課題だった。そのためまずは映画を視聴することにし た。論文では全13作品あるディズニープリンセス作品のうち『白雪姫』、『シンデレラ』、『美女と野獣』を扱ってい るが、最初に取り掛かったのは『白雪姫』であった。その際、把握できる内容を見落とさないようにExcelで表を作り、 1ショットごとに区切って舞台や台詞、キャラクターやカメラの動きなどあらゆる情報を書き込んでいった。ショットが 変わったり画面が変化したりするたびに一時停止をし、表に書き込んでいたため、非常に時間がかかり映画での1分を1時 間かけてみていることも少なくなかった。しかし『白雪姫』は全部で85分近くあるため、いくら重要な作業と言ってもこ ればかりに時間をかけるわけにはいかなかった。材料が集まらないと執筆ができないのも事実であるが、材料集めをやる だけでは文字さえ増えず、論文がいつまでたっても出来上がっていかないのである。なぜなら作成した表は付録として扱 われ、本文には含まれないからだ。少ししてこのことに気が付き、材料集めに莫大な時間を割く状況を打破するためには、 内容把握のやり方を変えることが必須だと思いながらも、私は『白雪姫』においてやり方を変える事ができなかった。そ れは、それまで取っていた方法を作品の途中で変えるということは、作品内で把握した情報にムラができてしまうし、付 録として表を載せたときにも見づらくなってしまうと考えたからである。また、最初から表の作り直しをするというのも 更に時間がかかってしまうのではないかと思った。結果私は、正確な期間は覚えていないが、『白雪姫』の内容把握に3週 間以上かけ、11月の下旬になっても執筆できているのは序論が少しと、以前からまとめていた2章で扱ったディズニーの歴 史だけであった。そしてこのことが、明らかにのちの自分を苦しめることとなった。
 そもそも方法を変えると言っても、ショットごとに区切ることをやめたり、カメラの動きも細かく記すことをやめたり、 キャラクターの動きでは男女間の行為に重きを置くようにするというようなものである。なぜなら、論文で事細かに把握 しなければならないのは男女間の行為であり、カメラワークなどはあまり問題ではないからである。この方法は扱った残 りの2作品で適用した。しかし私が『白雪姫』において途中からこの方法を適用し、表の作り直しをする決断をしなかった のは、先に述べた理由以外に、自分の執筆状況に危機感をあまり抱いていなかったことと、それによってスケジュールを 組んだり守ったりすることが疎かになっていたことが考えられる。
 このころ毎週水曜日のゼミの時間では、前の週に立てた一週間のスケジュールに対してどれだけ取り組めたのかと、次 の一週間でどこまで進める予定かを報告することになっていた。しかし私は一週間の予定を立てることができても、その 先の提出までのスケジュールを立てることができなかった。それは元々、作業量に対して自分がどれくらいの時間でどれ くらいのことをできるのかを把握して計画を立てることが苦手だったこともあるが、どこかで「とにかくやっていけばな んとかなるだろう」という気持ちがあったことも否めない。そのため執筆が進んでいないことに対していまいち危機感が 持てていなかったのである。また『白雪姫』の内容を表に書き込んでいく作業は大変で忍耐力を要したため、実際は執筆 できていないにもかかわらず、それだけで卒論をやっている気になっていた。こうした考えがスケジュールを更に遅らせ、 いつまでも本腰を入れようとしないような逃げの姿勢を取り続けてしまったのである。気が付くと、長谷川ゼミ内でひと つの区切りとして設けられている12月25日のゼミ内提出まで残り1カ月を切っている状況であった。私がすべきだったのは、 苦手でもなんでも先を見越した一通りのスケジュールを組んでみることと、遅れてしまったときに挽回できるよう無理の ない計画を練り直し、絶対にそれを守るということ、また自分の執筆が進んでいないことをリアルに受け止めることがで きるよう、執筆を終えた節をチェックするリストを作るなど工夫することだったのではないかと思う。実際、チェックリ ストを本格的に付け始めたのはゼミ内提出の1週間前あたりであったが、とてもゼミ内提出で規定となっている考察以外 の部分を一度は書き終えている段階に到達できないことは目に見えており、ゼミ内提出の1週間ほど前になってようやく 胃がひっくり返りそうになるほどの危機感を抱いたのであった。それまでにも提出まで残された日数があまりないことを 考えて焦ることはあったのだが、やはりどこかでどうにかなると思っていたのである。
 こうしてゼミ内提出後、なんとか遅れを取り戻そうと必死になって書けていない部分に取り掛かっていったが、学校に 本提出する2日前まで、それまで後回しにしていた節や考察の執筆を続けているような情けない状態であった。ゼミ内提出 後は、先生がアドバイスとともに組んでくださったスケジュール通りに残りの考察や図表などの付き物、見直しをしていく ことになっていた。そして提出の2日前には、本来ならすでに何度も見直しをしているべき時期であったのだから、私がい かに後れを取っていたのかは明白だろう。そのためろくな見直しもできず、論文の精度を上げることができずに提出となっ てしまったのである。今になって提出した卒論を見直すと、誤字だけでなく、日本語として読みづらい文章や何が言いたい のかよくわからない文章まであり、人に読んでもらおうとする工夫の欠けた、論文以前の問題があるような状態になってし まっていた。
 私が卒論の取り組みついて反省すべきなのは、こうした危機感のなさとスケジュール管理の粗略さだけでなく、自分のやっ ていることに対して自信を持てなかったこともある。私は以前から先生や他のゼミ生に、私の自信のなさを指摘されたこと が何度かあった。物心ついたころから、何をやるにしても失敗をすることが怖いと思い、これで良いのか、失敗しないかと いうことばかり考えてきた。しかし何かに挑戦しようと思ったら失敗するリスクはつきものであり、それを恐れて行動をた めらっては成長したり何かを得たりするチャンスを逃す可能性もある。そして何よりこうした考えをもって行動したのでは、 目的が何かを得ることではなく失敗しないことにすり替わってしまい、自分が当初やりたいと考えていたことを見失うと思 う。しかし卒論に取り組んでいる間、大抵私はやっていることについて自信がもてず、先生に質問をするときも「これでい いのか不安だ」というようなことばかり話していた。それは明らかに先生に「こうすれば良い」という答えをもらおうとし ている姿勢であり、テーマをもらったときに心に決めていた自ら考えて取り組むこととは真逆の状態であった。先生はその たびに「これで良い」と保証できるものは何もないのだから、とにかくやるしかないのだと一喝してくださった。結局この 自信のなさは、見直しが不十分だったために提出まで付きまとうことになったが、年内最後のゼミが終わって正式な集まり がなくなったあと不安になるたびにこの先生の一言を思い出すことで、そのうち不安よりも「やるしかない」という気持ち が勝り、先生やゼミ生に会わなくなったあともなんとか最後まで執筆することができた。とはいえ、先に述べたように見直 しもろくにできていない状態であったため、提出しても少しも安心できるような心境ではなかった。

 ここで論文の内容についても少し触れて反省したい。冒頭でも述べたように私の卒論では、ステレオタイプやこれまで なされてきたディズニー批判では語ることのできない男女の関係を探ることを目的としていた。そのためには、当然ステレ オタイプやディズニー批判について学ぶ必要もあった。しかし私は危機感や計画性がなかったためにこれらをろくに勉強す ることができず、ディズニー批判についてはジェンダーの観点から批判したものばかりを扱ってしまった。ジェンダー論を とにかく扱った理由は、男女の関係を述べるうえで避けられない批判であったからであり、また第4回ゼミ内発表振り返りレ ポート( http://www1.meijigakuin.ac.jp/~hhsemi13/index-egg/egg-works/egg-works-frikaeri/frikaeri_shankusu4.html ) で述べたように、ディズニーでも男性が女性の運命を握る支配的な立場にあるという批判を鵜呑みにしてしまったからである。 ディズニー批判は先行研究としてこうしたジェンダー論や、ディズニーが暴力やセックスを隠して物語を製作していること、 作品に横たわる資本主義・社会主義的な価値観などを序論にまとめた。その後扱った作品に描かれた男女の行為をシーンに 沿って述べる際にも、必要に応じてそれらを引き合いに出していたが、ジェンダー論以外の批判はほとんど引き合いに出す ことができなかった。これはこれまでの私の振り返りレポートで毎回反省点として上がっていた、本を読むなどの基本的な 勉強を後回しにしてきた結果である。それはステレオタイプについての勉強も同じであった。こうして論理的に考えるフレー ムがない状態で最後まできてしまったため、考察でも、その前までに述べてきた映画から把握できる内容とジェンダー論を ほんの少し触れた程度のことしか述べることができなかった。いかに勉強が大事で、自分がそれを怠ってきたのかを身をもっ て思い知った瞬間であった。最終的に私の論文は23万字という、長い文章をほとんど書いたことのない自分にとって驚くべき 容量になっていたが、こうしてこれまでの勉強を怠ってきたがために、その中身はとても充実しているとは言い難いものに なってしまった。
 こうした様々な反省があったため、自分の卒論の講評がなされる口頭試問が近づくにつれそれが怖いとさえ感じていた。 しかし同時に、なんとか力を振り絞って書いた卒論を評価してもらえることが嬉しいとも思っていた。こうしてようやく迎 えた口頭試問は、不安と緊張が入り混じりとても落ち着いていられなかった。私の順番が回ってくると緊張は最高潮に達し、 最早何がなんだかわからなくなっていたが、ここでこれまでのように自信をなくすのは自分の卒論に対して逃げている気が したため、作ってきた原稿をとにかく自信を持って読むよう意識した。原稿を読み終わると先生から、まず「映画に出てく るステレオタイプの表現とそうでない表現をどのようにわけるのか」と質問された。実は、私はこの質問と同じことを執筆 中に考えていたことがあったが、ステレオタイプとそうでないものを判断する指標のようなものがあるとはとても思えず、 それについて悩むことはすぐにやめ、とにかく自分の判断でそれらを区別していた。そのことを思い出し、わけかたを答え る代わりに、客観的に物事を述べなければならない論文で主観的にそれらを判断していたことを話した。この点は私が論を 進めていくための核となる部分に横たわっている問題だったのだと改めて気が付き、執筆中は事の重大さに気付けず、それ について考えることをすぐにやめたことを悔しく思った。しかしそれに気付いた今も、ではどうすべきだったのかという解 決策が思い当たらない。しかしそれはステレオタイプについての勉強が不足しているために解決策が浮かばないのではない かと思う。私は扱った3作品に描かれている内容を把握することで手一杯になってしまったが、このように本来ならばやらね ばならない重要なことが残されたままであった。
 しかし主査である長谷川先生は、私が計画を狂わせ不安に駆られながらも取り組んだ、作品の内容把握についてはしっかり やることができていると言ってくださった。このレポートの冒頭でも述べたように、これこそが論文の根拠となる重要な部分 であった。そのためこの評価は私にとって喜ばしいものだった。また反省点として挙げていたように、ディズニー批判はジェ ンダー論しか扱うことができていないが、そのジェンダー論では語ることのできない男女の関係を発見することができており、 それだけでも今回は充分であるとのことだった。結果として良い評価をいただけたが、やはり本来やろうとしていたことには 到達できなかったのである。

 今回論文において、自分が人間を単純化することの奇妙さに気付くことができ、テーマのそもそもの目的であった、自 分がステレオタイプにはまっている状態を捉え直すということも自分なりにできた。しかしここで述べたように、多くの反省 を残す結果となってしまったのは悔やまれることである。そしてこれらは、今回卒論という機会によってあぶり出された自分 の弱点であって、卒論以外のことにも言えるものである。せっかく身をもってこのことに気が付き、悔しい思いをしたのだか ら、今後何かに取り組む際にはこれらを思い出して反省を大いに活かしたいと思う。以上のように、自分にとって重要なこと にいくつか気が付くきっかけとなった卒論に取り組むことができて本当に良かったと思うが、単なる“良い思い出”で終わら せることのないよう、これからも卒論を振り返ることを忘れずにいたい。また、まだまだ自分の知識では考察できない学問の 世界の広さを身をもって思い知ったのだから、これからは積極的に学術的な本を読み、学問の面からも自分の考えに自信をも てるようになっていきたい。


〈註1〉ディズニープリンセス作品…ディズニー長編アニメーション映画の中でも、姫もしくはのちに姫となる女性が活躍する 物語。公式にディズニープリンセスとして認められているキャラクターが登場する作品は11作品ある(『白雪姫』、『シンデ レラ』、『眠れる森の美女』、『リトル・マーメイド』、『美女と野獣』、『アラジン』、『ポカホンタス』、『ムーラン』、 『プリンセスと魔法のキス』、『塔の上のラプンツェル』、『メリダと恐ろしの森』)。