シャンクス
~第4回発表振り返りレポート~

 この振り返りの結論から言うと今回の発表でも自分でテーマを決めることができなかった。その主な原因として 圧倒的な勉強不足と、自分の考えていることや行っていることを客観的に見ようとしていなかったという意識の低 さが言える。

 私は夏合宿の第3回ゼミ内発表で、主に次のような内容を発表した。それは、自分がそれまで「かっこいい」と 思ってやってきた言動が実は人から恋愛的に好かれるためにやっていたこと、人に接するとき相手が男であるか女で あるかを気にしていること、その場の主導権を握っている人が誰なのかが気になるということである。卒論としては 内容が具体的でないためテーマを決定することはできなかったが、こうして今まで向き合うのが辛かったために認め るのを避けてきた自分自身の問題に、発表という場でようやく正面からぶつかることができた。そのため、これらの 自分の人間関係の捉えかたについて何かしら卒論を通して理解を深めることができたら、と考えていた。
 夏合宿が終わるとその2日後には夏季集中講義の本番がやってきた。私は当日の運営を取り仕切る現場班のチーフを 任されていたが、それまでスタッフ全員で懸命に準備を重ねてきたこともあって無事に講義を終えることができた。 そしてこの講義での経験がひとつの自信となり、必ず成功させる、という目標に向かって必死に取り組めば、目標が 達成される可能性はぐっと高まるということを、身をもって知った。この勢いを失わず卒論に活かしたいと考えたが、 その後の自分の勢いは確実に失速していたように思う。何もしていないという日はなかったのだが、例えばこの日まで に本をここまで読む、という目標を立てても達成できないことの方が多く、そのことにあまり焦りを感じずにだらだら と本を読んだり卒論について何かを考えたりしていることが多かった。ゼミ全体としてテーマが決まっていない人の方 が多かったからなのか、掻き立てられるような焦りはなく、どこかで「なんとかなるだろう」という気持ちがあったこ とは否めない。とにかくテーマを決めて早く書きたい、ということは何度もゼミ生や友人にこぼしていたのだが、当然 自分がやろうとしなければ進むはずもなく、卒論に対する考え方が非常に浅はかだったと思う。
 そんな中8月31日に長谷川ゼミのOB・OG会を兼ねた先生の博士論文合格祝いがあり、副ゼミ長である私は現役のゼミ 生代表としてゼミ長の<サラダ>と一緒に参加させていただいた。先輩方は今年度長谷川ゼミ生のほとんどが卒論のテ ーマが決まっていないという状況を非常に心配してくださり、私のまとまらない卒論の相談にも乗ってくださった。そ の際私は何かと人を“男と女”と分けたがるとの指摘を受け、それについて一体どういうことなのか、何故そうなのか という疑問を自分に対してぶつけ続けてみたら良いとのアドバイスを頂いた。そうして帰宅してから、一体自分はどの ような理屈をもって人を男と女に分けているのかを考えてみた。すると両者に明確な違いは見つからず、「力が強いと 男らしい」「恋に悩むのは女らしい」というような実際には男女のどちらにも言えるはずなのに、なんとなく多くの人 が共通してもっているいかにもステレオタイプなことばかりが挙がって愕然とした。少し考えればわかることなのかも しれないが、それすらもきちんと考えてこなかった私にとってはひとつの発見であった。
 またこの頃同時に、自分の認めたくない面に向き合ったという問題を切実だと捉えたため、第1回ゼミ内発表以来考え ることをやめていたディズニーについてもう一度考え始めていた。それはディズニーが私にとって時間もお金もつぎ込 むくらい盲目的に好きになっている対象であり、なにか自分の人間関係の捉え方とつながる部分があるかもしれないと のアドバイスを先輩方やゼミ生から頂いたためである。そうしてディズニーについて思うところをとにかく樹形図のよう に広げて挙げていった。しかし思った以上に樹形図に広がりがなかったため、自分の視野の狭さを思い知った気がしてあ る種の虚しさのようなものを感じていた。
 9月2日にはフィールドワークが行われ、久しぶりに私が所属しているAチーム以外のゼミ生や先生に会った。その調査 報告を兼ねた打ち上げの席で設けられた卒論の相談の時間に、男女について違いがないとわかったことやディズニーから 考えた樹形図、また新たに考えた血液型と性格が結びつけられていることの疑問を先生に報告した。すると先生からは 「男女についてだけでなく、ディズニーや血液型についてもステレオタイプなことばかり言っていて私だけのオリジナル なことは何も言っていない」との指摘をされた。更にディズニーはステレオタイプの塊であるという一言も頂いた。私は それを受けて、ステレオタイプにはまってしまう自分についてディズニーを題材に考えたいと思うようになった。この頃 から今まで私はそれなりに色々なことを考えてきたつもりだったが、今思い返すと何ひとつ先に進めていなかったように 思う。こう思う理由については後に述べたい。
 その後ステレオタイプについて勉強をしようと思い、大学の図書館でそれについての文献を探したがその場では社会心 理学の本しか見つけることができなかった。私が知りたいのは心理学のような内面の動きを研究したものではなく、それ を引き起こす装置とも言える社会的な働きかけの視点からステレオタイプを知りたかった。そのため内容に飲み込まれな いように注意しながらしばらく読んでいたが、心理学の研究結果など別の方向にずれていったと感じたため、途中で読む ことをやめた。今思えばなぜこんな簡単なことを、と思うが、別の図書館を巡って自分が求めているような文献を探しに 行くような執念がなかった。結局それからは主にディズニーに関する本を読んでいたが、内容は決まっていないものの自 分の足で調査をするフィールドワークに魅力を感じたことからディズニーリゾートに関する本を読んでみるなど、文献の 選び方がかなり恣意的だった。そうではなく、盲目的に好きになっているディズニーという対象を客観的に見るためにも ディズニー批判などの文献を早くからあたってしっかり読み込むべきだった。それに気付いたのも夏休みが明けたあとの ゼミで先生からディズニー批判の文献を全く読んでいないことを指摘された時だった。また本はどれも難解そうなのは避 け、自分が理解しやすそうな内容のものばかり選んでしまったように思う。夏休みの間の私は正直何の本を読んだらよい のかわからないと思っていたが、冷静に自分の状況を見直してその時の自分に足りないものを判断したり、たとえ難しい 本であってもこれはわかりたいと挑むような心構えすらなかったのだろう。

 夏休みが明けた秋学期初回のゼミでは、ディズニーリゾート内のテーマランドという一種のカテゴリーを見ていくこと を考えたことを報告した。これは夏休みに読んだ社会心理学の本に記述されていた、あるカテゴリーの中に含まれるもの に共通してみられる特徴等がステレオタイプとして適用されるという話から思いついたことである。しかし、私にとって 重要であったはずの人間関係の捉えかたについての話がどこかへ行ってしまい、何を明かしたいのかもよくわからない報 告になってしまっていた。このとき先生から、いつまでたっても同じレベルの話をしているため、数学でいうX軸が二本あ るような状態でY軸が定まっておらず何を明らかにするのかという点が定まらないと指摘された。また私にとってひとつの 軸はディズニーで、もう一方の軸は「男と女」や「支配と服従」ではないのかという指摘も頂いた。「支配と服従」とい うのは、私が人と接するときに場を仕切っている人・仕切られている人が誰なのかが気になるという話からきている。そ して正直この時は「同じレベルの話をしている」ということがどういうことなのかはっきりと理解していなかったが、今 考えると一方の軸であるディズニーに対し、もう一方の軸としてそのディズニーのステレオタイプであるものばかりを引 き合いに出して考えていたということではないかと思う。つまり、例えば私がディズニーで「ステレオタイプが適用され ているもの」としてテーマランドを挙げたが、それは調べなくともわかることで、ただ「ディズニーが提示するステレオ タイプは、確かにステレオタイプである」ということを確認するだけのようなものを卒論で扱うことをずっと考えてきた のだと思う。結局このことには第4回ゼミ内発表でも指摘されるまで気付くことができなかった。また「ステレオタイプ」 ということばかり考えてしまい、自分にとって重要な問題であったはずの人間関係についての捉えかたを一方の軸とする ことをすっかり忘れてしまったということも、軸が定まらないことの原因だったと思う。
 その後、私は第4回ゼミ内発表に向けて「ディズニーにみる男女の支配関係」を大まかなテーマとして考えていた。テー マを「男と女」もしくは「支配と服従」のどちらかにしなかったのは、私が人を男女に分けた上で支配関係を持ち込もう としていたためである。題材としては、男女をより詳しく見ることができると考えたディズニーのプリンセス作品を扱お うとした。そこでディズニーのプリンセスについて書かれた論文を読んで、支配に関する部分がないかを探した。その中 で何度も繰り返し書かれていたのが「家父長制」で、女は夫や父に奉仕すべき存在であるとの考えだった。それから私は 家父長制に関する本を読み始めたりもした。しかし私はこれまで人と接する上で家父長制を意識したこともほとんどなかっ た。それにも関わらず、ディズニープリンセス作品で男女の支配関係を見ていこうとすると家父長制以外にないのではない かと思い込んでしまい、自分の問題と卒論で扱おうとしている問題を上手くつなげることも、別の視点で冷静に問題を見る こともできなかった。とにかく考えがまとまらないという焦りにとり憑かれた。またこれは発表のときに先生から指摘され たことであるが、家父長制から抜け出せなくなってしまった原因のひとつは、ディズニープリンセスについての論文がフェ ミニズムについて述べたものばかりであったからである。そうして読んだ本が内容の幅も量も少ないにも関わらず、その読 んだ本で述べられていることを鵜呑みにしてしまった。
 それにも気付けず焦るあまり、苦肉の策で発表直前になって立てたテーマは「ディズニープリンセス作品にみる理想の男 女の恋愛関係」というものだった。このテーマを打ち出したのは、私が自身の人間関係の捉えかたを辛いと思うのは、どこ かで理想の恋愛関係を描いているからだと考えたためである。そうしてディズニーでステレオタイプとして描かれている男 女の恋愛関係を分析して、それを理想とするというのは一体どういうことなのかを考えようとした。しかし発表で先生に開 口一番言われたのは「つまらない」の一言だった。それは先述したように、私が考えたことはステレオタイプを出してそれ がステレオタイプであると確認するだけの内容だったからである。私が先に「夏休みから何ひとつ先に進めていなかった」 と述べたのは、このようにいつまでもステレオタイプにはまっている自分を客観的に捉えることができなかったからである。 また、ディズニープリンセスが少なくとも多くの女性の理想の恋愛を描いていることは周知の事実であるし、改めてそれを理想と して見ることにはなんの意義もないという指摘も受けた。言われてみてそれに気付けなかったことに悔しさを感じた。
 また、正直私はディズニープリンセス作品を複数見て分析をするということは面白そうだとさえ感じていたのだが、それだけ につまらないという一言が苦しかった。だが本当に苦しかったのは先生かも知れない。あれだけ何度もアドバイスをして下さっ たのに、私はなんの努力もせず、こんなことも言わなければわからないのか、というようなことまで言わせてしまった。先生 だけでなく全力で相談に乗ってくれた他のゼミ生や先輩方に対して、私は全力でやれることに取り組むことさえしない、本当 に失礼極まりない態度であった。そして、少なくとも本気で自分に向き合いたいと感じていた夏合宿の発表直後の自分に対し ても、失礼だと思う。こうした状態になってしまったのは、どこかで「なんとかなるだろう」という気持ちがあったことと、 卒論と向き合うことが想像以上に難しいことでそれをどこかで辛いと感じ、消極的な気持ちになっていたことが理由として挙 げられると思う。それに立ち向かおうとする意気込みがなかったのは、自分でなんとかしなければならないと考えるというよ りも、誰かに甘えようとしていたということの表れだと思う。また発表の数週間前からは、ディズニーを題材とすることは決 めた以上卒論で書くことになるディズニーの歴史をまとめ始めたが、そんなものはディズニーを題材にすると決めた夏休みの 間でもできたはずだ。そうして何かをやっている気になって、実質的には勉強をしていなかった。テーマが決まっていなかっ たとはいえ、今自分になにが必要なのか、これから先はどのように卒論に取り組むつもりなのか、そういったことは考えずほ とんど無計画に毎日をだらだらと過ごしてしまった。それに加えて大した勉強もしていないのに何かを見つけてはそれが全て であると盲目的に考えてしまったことが何よりいけなかったと思う。

 結果、私は先生から「プリンセスとプリンス―ディズニープリンセス作品にみる男女関係の表象」というタイトルを与えて もらった。そして、ディズニープリンセス作品を見てジェンダーの視点やディズニー批判では語られていないような、ステレ オタイプとは異なる男女の関係を見つけるというテーマを頂いた。それは私が気付けていないくらいに男と女というステレオ タイプにどっぷり浸かっていて、そのことを少しでも理解する契機として与えられたテーマなのだと思う。そのため私はこの 論文で、自分を含めた人々がいかにステレオタイプにはまっていて、それは一体どういうことなのかを明らかにしなくてはな らない。そしてこれまでステレオタイプに当てはめて人と接してきた自分を捉えなおすことが大切だと思う。本来は私が書く 卒論なのだから、私自身がテーマを見つけて決めなければならないことは当然だ。その当たり前なことさえできなかったとい うことは本当に恥でしかない。これ以上残念な結果にならないよう、そしてなんとかここまで来ることができて良かったと思 える卒論が書けるよう、今度こそ全力で取り組むしかない。先生から与えてもらったテーマではあるが、ただやらされている と思われるような内容に決してならないよう、テーマを自分のものにしたい。そのためには四の五の言わずに必死で勉強をし て、更にただ書くだけではなく、自分には何が必要なのか問題を明らかにするには何が最適なのか、執筆や分析の合間に客観 的な視点をもって考え、自分で案を練り直しながら取り組んでいくことが必要だと思う。そして、せっかくゼミ生という一緒 に卒論に挑む仲間がいるのだから、これまで以上にぶつかり合って支え合い、互いに納得のいく卒論が書けるよう切磋琢磨し ていきたい。提出まで残された時間はないのだから、学問という世界に挑むような強い気持ちで喰らいついてやるのみである。