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~口頭試問振り返りレポート~

 私は、卒論を『坂本龍一というイメージはいかにつくられたか――1978年~1986年』というタイトルで執筆した。論文の内容としては、坂本龍一がデビューした年の1978年から1986年までの期間にしぼって、坂本について取り上げている雑誌・新聞記事を集め、そこで語られている言説から坂本龍一のイメージを探っていくというものである。1978年から1986年というこの期間に設定した理由は、私がかねてから坂本龍一に対して抱いていた「知的アイドル」というイメージが、雑誌記事などから最も垣間見える期間であったからである。論文の構成としては、第1章が序論、第2章では坂本龍一の音楽家・文化人としての経歴を取り上げ、第3章から第5章では坂本龍一に関する言説をまとめ、第6章が考察になっている。


 前回10月後半に行われた第4回ゼミ内発表で、私は坂本龍一のイメージについて卒論を執筆していくことが決まった。それから10月いっぱいは、序論と第2章の坂本龍一の経歴について取り上げる章を執筆した。そして11月頃から国会図書館に足を運び、坂本龍一を取り上げている雑誌記事を集め始めた。先生からは坂本龍一のキャリアは長いため、卒論で取り扱う際にはある期間に絞って見ていく必要があるということをアドバイスされていた。しかし、記事を集め始めたときの私は、まだ期間を絞る際の動機が見つかっておらず、それゆえに一定期間に絞ることの重要性をあまり理解していなかった。今考えると、この後ある期間に絞っていくことになるわけだが、一定期間に絞ることによって、その期間に特有の社会的・文化的背景が坂本龍一のイメージと関係していることが分かったため、ある期間に注目して見ていくことが必要だったのだと思う。しかし当時はその重要性に気付いていなかったため、とにかく国会図書館に通い、坂本龍一がデビューして間もない1980年前後の時期から、現在までの雑誌記事に一通り目を通し、メモを取る作業を進めていた。その作業に2週間ほどの時間を費やした。今考えると、この時期やっていたことは、坂本龍一のキャリアの全貌を雑誌記事の言説から見ていくことであったため、その後卒論で扱っていく期間を決めるためには必要なことだったのだと思う。しかし、本題はここから期間を絞り、さらにその期間を集中的に見ていくことであったため、時間を費やし過ぎてしまったとも思う。
 そうして、国会図書館でデビューから現在までの一通りの坂本龍一に関する記事を集め終わったところで、今度はそれらの記事についてメモしたものをプリントアウトし、カードを作った。なぜカードにしたのかといえば、それまでパソコンのワード上でメモしていたため、スクロールすることでしか内容を見れないことが不便に感じたためである。カードにすると好きな順番で並べたり分類したりすることができる。こうしてできたカードを年代順・主題別に並べたり、分類したりしてみて、卒論で取り扱う言説の期間を決めることにした。そうして決定したのが、デビューした1978年から1980年代いっぱいという期間であった。なぜなら、この期間の記事から垣間見えた、ファンが坂本龍一を「神」のように崇めていたり、「アイドル」としてもてはやしたりしている様子が、自分自身が坂本に憧れている状態と重なっているように感じたからである。
 そして取り扱う期間を決めた11月中旬頃からは、国会図書館にある資料だけでは量が少なかったため、雑誌専門の資料館である大宅壮一文庫に通って資料を集め始めた。また、学校の図書館でも新聞記事を集めた。これらの資料を集めるだけで1週間半ほどかかった。その後、集めた資料に一通り目を通し、坂本龍一のイメージが大きく変化していると思われる時期を探し、1978年から1989年までを4つの区分に分けた。そして、それぞれの区分ごとに1つの章を設け、集めた資料をもとに執筆を進めていった。この部分の執筆を始めたのは11月の終わり頃からだった。
 それからの執筆が大変だった。始めは大量にある記事をどのように分類してまとめていくべきかでとても悩んでいた。しかし、とにかく書きはじめなければ分からないと思い、最初は記事に頻繁に出てくるキーワードごとに――「テクノポップ(註1) 」や「赤い人民服(註2) 」、「シンセサイザー(註3) 」など――分類して執筆していったのだが、進めていくうちに複数のキーワードが同居している記事が多く見られ、上手く分類できないことに気付いた。そのことを先生に相談したところ、記事で伝えようとしている主題ごとに分類していくと良いとアドバイスをいただき、それからは主題ごとに記事を分類し、執筆を進めていった。執筆をしていくなかでは、なるべく記事に書いてある内容を客観的に見て取り上げていこうと思った。なぜなら、記事に書いてある内容をただそのまま取り上げるだけでは、記事の代弁になってしまうからである。しかし、それがなかなか難しく頭を抱えてしまうこともしばしばだった。客観的に捉えて、その記事の狙いや裏にあると考えられるメッセージを読み取ることができる場合もあれば、記事に書いてある内容を鵜呑みにしてしか捉えられない場合もあった。また、記事に書いてある様々な内容のなかで、どの部分を取り上げていくべきかにも悩んだ。しかし、刻々と時間は過ぎていくため、悩みながらもとにかく執筆を進めていった。結果的には、1978年から1989年までを見ていく予定だったのが、スケジュール的に1986年まで見ていくことで精いっぱいになってしまった。
 しかし、執筆している中で面白いと思う時もあった。例えば、坂本龍一が現代音楽講座という名目でファッション雑誌において現代音楽について語っている記事があった。この記事では坂本が「最近流行りの現代音楽」を語ることのできる人物として記されていた。現代音楽はポピュラー音楽と比べると、作曲するために学術的・専門的な音楽知識を必要とするため、アカデミックな音楽であるといえる。そのようなアカデミックな要素もつ音楽が、当時はファッション雑誌で取り上げられるほどに注目されていたのだ。そこには、思想家の浅田彰などを筆頭にこの当時流行していた、アカデミックなものをファッションとして取り入れるニュー・アカデミズム的流れが背景にあったのではないかと考えられる。このようにして、記事に書いてある内容を当時の文化的面と合わせて考え執筆できたときには、1978年から1986年という期間に自分が気になる坂本龍一のイメージが成立している理由が少し明らかになったようで、面白かった。


 そして、12月25日のゼミ内仮提出までには、1978年から1986年までの期間を執筆し終えた。しかし、私はその仮提出の前後で気がゆるんでしまった。ゼミで決められていたスケジュールでは、仮提出後の3日間が考察を書く期間であったが、私は考察を書く前に、資料を扱った第3章から第5章の節ごとにまとめを執筆してから考察を書こうと思い、そのまとめの節を執筆していた。資料を扱う章では、記事に書いてある主題の分類ごとに細かく節を構成していったため、それらの節が複数ある状態だった。そのため、まずは複数ある節ごとに書いてある内容をまとめることによって、細かな内容を整理してから、最後の考察に取りかかろうと思ったのである。しかし各節のまとめは、結局全ての節において執筆することができなかった。そのため、まとめの節は完成に至らず、最後の考察の章もあまり時間をかけることができずに中途半端な状態で本文の執筆を終えることになってしまった。今振り返ると、限られた3日間という時間のなかで、各節のまとめと考察の両方を書きあげるためには、もっと緻密なスケジュールを立て時間を費やす必要があった。しかし、そのときの私はそのようにスケジュールを立て丸3日間の時間を費やすまでの覚悟ができておらず、その必要性にも気付いていなかった。また、もしくは時間的な余裕を考え、中途半端に各節のまとめに手を伸ばすのではなく、その分考察のみを充実したものにさせるという判断もあったと思う。しかし、そのように切羽詰まった状態でありながらもどこかマイペースに構えていたために、各節のまとめを捨てることもできず書き切ることもできず、結果この中途半端な状態を引き起こしたのだと思う。つまり、覚悟を持って向き合う姿勢が足りなかったのだ。
 それからは付き物の整備や註の付け加え、内容の見直しや推敲などを行っていったが、中途半端な状態で本文の執筆を終えた私は、自分の卒論に向き合うことがますます苦しくなり、年明けの数日はさらに執筆の意欲が落ちてしまっていた。そして、提出日前の3日間は費やせる時間を費やそうと力を尽くしたが、最終的には満足の行くものとしては仕上がらずに提出するかたちになってしまった。


 その後迎えた口頭試問では、自分の卒論の内容と達成点・不足点、それに加えて上記で記したような自身の取り組みに後悔が残るかたちになってしまったことを述べた。先生からは、多くの資料を集め、それらをまとめた点については評価をいただいた。一方で、やはり最後の考察の部分では、集めた資料の分だけ引き出すことができておらず、坂本龍一ににじり寄ることができていないという評価をいただいた。その要因として、理論的フレームとなる音楽的・文化的面の知識が不足しているため、今後はフレームとなるための勉強が必要であるというアドバイスをいただいた。
 私は今回の取り組みが、結果的に後悔の残るかたちになってしまったことを、今まで最後のほうになると惜しく萎んでいってしまう自分から成長することができていないこととして捉え、そのことを口頭試問の場で話した。しかし、先生からは「確かにそういうタイプなのかもしれないが、今までと同じというのは不適切で、ゼミに入った当初では書けなかったものが書けるようになったことは確か。相似形だが、ゼミに入った当初と現在では大きさはちがう」と言っていただいた。また、全体の講評では「今回達成できなかった部分は、めげることはなく次の課題として考えること。これで終わるわけではないのだから、卑下せず自信を持つこと」というお話をしていただいた。
 卒論の執筆を通して、今まで知らなかったような坂本龍一の側面を知り面白いと思うこともあれば、辛い、しんどいと思うことも沢山あった。特に、自分で頭を使い執筆していく時期はしんどいことが多かった。限られた時間で覚悟を持って向き合う姿勢が足りなかった部分や、自分の鬱屈とした感情に振り回されてしまった部分など、自分の弱さを目の当たりにすることもあった。だが、自分の弱さとここまで対面することはない程に、今まで登ってこなかったような山にチャレンジしたことも事実であるし、最終的に執筆を終えることができたことは、自分でも評価し自信を持ちたいと思う。一方で、今回見えてきた自分の弱い部分はこれから意識して向き合っていきたいと思う。そうして、なによりこれから卒業後も勉強を続けていくことはできるのだから、今回悔しいと思った点、達成することのできなかった点は、学び続けていきたい。この1年間取り組み続けてきたからこそ、学ぶことの出発点に立つことを手に入れることができたのだと思う。だから、今後もこの気持ちを大事に勉強は続けていきたい。


註1……シンセサイザーやシーケンサー、ヴォコーダーなどの電子楽器を使ったポピュラー音楽のジャンル名。日本では、坂本龍一が加入していた音楽グループ、イエロー・マジック・オーケストラが同ジャンルの先駆的存在となった。
註2……坂本龍一が加入していた音楽グループ、イエロー・マジック・オーケストラのステージ衣装。まっ赤な生地で作られた中国の人民服風の衣装で、当時注目を集めた。
註3……デビュー当時の坂本龍一のソロ作品や、イエロー・マジック・オーケストラの作品において頻繁に使用されていた。当時としては比較的新しい楽器で注目された。