サラダ
~第4回発表振り返りレポート~

 10月23日、24日の2日間を通して、第4回ゼミ内発表が行われた。私は今回の発表を、テーマと題材を決定するための最後のチャンスであると考えていた。なぜなら、ゼミ内での卒論仮提出日まであと残り2カ月間であり、本来ならばこの時期は本文を書き進めているべきであるからだ。前回の第3回発表でテーマと題材を決めることができなかった私は、その後の夏休みの時間を通してそれらを決定しようと考えていったが、今回の第4回発表の時期までまだ決定できないでいた。ゼミ内発表という場は、ひとりが数十分の時間をもらって発表し、それに対してゼミ生や先生からまとめて意見をもらえる貴重な場だ。そのため、私は今回の発表の機会を通して、なんとか自分のテーマと題材を決定したいという思いでいた。


 前回の第3回発表では、テーマや題材を考えていく際に、「サブカルチャー」や「サブカル」という言葉に縛られ、その言葉から具体的に掘り下げていくことができなかった。そのため、自分が卒論で書きたいことも一体何であるのかまったく分からない状態だった(くわしくは、<サラダ>の第3回発表振り返りレポートをご覧ください)。テーマや題材を考えていくうえで、「サブカルチャー」や「サブカル」といった言葉が出てきたきっかけは、第1回発表で気になる存在として「サブカル系女子」を取り上げたことや、自分のなかで洋楽や映画などを総体として「サブカルチャー」という言葉で捉えており、それに憧れを持っていたことが挙げられる。
 その後、夏休みの期間を通して、自分の興味のある本を読んだり、自分の話を具体的に出していくことをしながら、テーマや題材を考えていった。この頃読んでいた本は、『サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の30年とコミュニケーションの現在』(宮台真司、PARCO出版、1993年)や、『ウォークマンの修辞学』(細川周平、朝日出版社、1981年)などである。しかし、そのときの私は、本を読んで新たに分かったことに飛びついている状態であった。つまり、本に書かれている内容に呑まれながら自分の話を結びつけてしまっていたのである。たとえば、『サブカルチャー神話解体』には、携帯プレイヤーで音楽を聞き流しながら移動したり、日常生活を送ったりすることを、「現実演出ツール」として音楽を聴くことと記しており、それに自分が当てはまっていたら、それがテーマになるのではないかと考えていて、本に書いてある内容に流されてしまっている状態であった。そして、そのようにして挙がってきた話をゼミ生や先生に聞いてもらうも、「手近なところに手を出している感じがする」「一般的な話で面白くない」「もっと掘り下げれば出てくるような気がする」という意見をもらう日々が続いた。
 そんななか、あるときゼミ生の<まゆゆ>と<シャンクス>に、私が高校時代に音大を目指していたことを話したことがあった。それを話しているときには、私自身この話がどのように卒論のテーマや題材に結びついてくるのか全く分からない状態だった。しかし2人からは、このとき話したような個人的な話をもっと出していくべきだというアドバイスをもらった。そうしてそれ以降は、自分の話を出すとき、安直に卒論のテーマや題材と結びつけたり、文献の内容に流されたりして考えるのではなく、自分にとって率直な話を出していくということを第一に考え、自分の話を掘り下げていった。そのために使用したのが、iPhoneのボイスレコーダーだった。それまではノートに自分の話を書きだしていたのだが、そのやり方だとすぐにペンが止まってしまい、あまり掘り下げていくことができなかった。そのため、以前ゼミ生の2人に話を聞いてもらった体験から、書くよりも話すほうが気軽に率直な話を外に出せると思ったため、ボイスレコーダーに向かって思いつくままに自分の話をし、録音することにした。また、そこで録音したものを後から聞き返して、文字に起こしていった。そうして出てきた話は、自分が中学時代に吹奏楽部でサックスを吹いていた話や、その延長で高校時代は音大に行くことを目指していた話、大学入学後にサークルで出会ったバンドを組んでいる同級生たちのことを羨ましく思っていた話などが挙がった。そしてさらに掘り下げていくと、「好きなこと」「やりたいこと」を見つけてそれで「自己実現」することや、「自分らしさ」を確立していくことを理想の姿として描き続け、それに縛られてきた自分についての話が挙がった。これらの話を、夏休みが明けたころから、何度か機会を作ってゼミ生や先生に聞いてもらった。人に話すことで、頭のなかでは混沌としていた上記の話が順序立てて整理され、そこで新たにもらった意見からも再度考えていった。
  また、このように話したり考えたりしていくなかで、知識不足だと感じたり、もっと知りたいと思うようになることも出てきた。今度はそれらについて書かれた本を探して、読んでまとめることも同時におこなった。具体的に挙げると、若者文化の歴史的な流れを知るため、『若者の現在 文化』(小谷敏編著、日本図書センター、2012年)、『若者文化をどうみるか?』(広田照幸著、アドバンテージサーバー、2008年)を読んだり、消費社会の仕組みや成立を知るため、『第三の消費文化論 モダンでもポストモダンでもなく』(間々田孝夫著、ミネルヴァ書房、2007年)、『「欲望」と資本主義 終わりなき拡張の論理』(佐伯啓思著、1993年、講談社)などを読んだ。


 そうして迎えた第4回発表では、今まで出てきた話から考えたテーマ・題材と、そのテーマ・題材を卒論で扱っていくうえで分析するための道具になると思い勉強した「消費記号論」について、そして候補に挙がったいくつかの題材の具体的な調査結果を発表した。上記で言っている、「分析するための道具になる」というのはつまり、文献を読み勉強することが、ある理論的なフレームを作り題材を考察していくための道具になるということである。以前から先生に、題材を調査したものを分析したり考察したりするときには、ある理論的なフレームを通して見ることが必要になってくる、ということを教えていただいていた。そのため、そのような点を意識して文献をあたるようにした。
 このとき発表したテーマは、「消費記号論における『モノ』と『行為』の関係のなかで、人々はいかに『自分らしさ』を作っていくか」で、題材は「『坂本龍一』にかんする言説」であった。まず、このテーマを設定した経緯について説明したいと思う。私は今まで「好きなこと」や「やりたいこと」を見つけて、それを仕事にしたり、それを主張したりすることによって、「自己実現」するということを理想としてきた。そして逆に言えば、そのような理想通りになっていない現在の自分に対して、なんとなく情けなさのようなものを感じており、不安を感じることもしばしばであった。それはすなわち、「好きなこと」や「やりたいこと」を持てないことに対して、不安を感じているのだと思った。そして、消費社会論における「記号化」の視点から、自分のこのような問題について見ていくことができないかと思い考えたのがこのテーマであった。消費社会では、数ある商品の中から選んだ「モノ」を身に付けたり、所有したりすることによって、自身をその「モノ」で記号化していくようになる。その点が、「好きなこと」や「やりたいこと」を選び、それによって自身を主張することとも関係してくるのではないかと思ったのだ。
 題材として「坂本龍一」を選んだきっかけは、私がかねてから好きなミュージシャンであったからだ。なぜ彼が好きだったのかといえば、彼は東京藝大を出てクラシック音楽を学んだのち、ポピュラー音楽のシーンで活躍していった人物だったからである。そして私は、彼のそのような境遇にずっと憧れを抱いてきた。私は音大受験のため高校時代にクラシック音楽のレッスンを受けていたが、その道を諦めて、大学入学後はポピュラー音楽でバンドを組んでいる同級生と知り合い、自分の知らなかったタイプの音楽の存在を知るようになった。そんな私にとって、坂本龍一はクラシック音楽とポピュラー音楽のどちらにも興味や関心があり、その中間地点にいるひとに見えた。また、クラシック音楽の道に進むことを挫折したのち、ポピュラー音楽を知らないことにコンプレックスを抱くようになった私にとって、両者の中間地点にいるように見える彼は、クラシック音楽からポピュラー音楽まで幅広い音楽の素養を持っているように思えた。そのため、彼の存在は私の憧れそのものになっていった。そうして私は、このように盲目的に憧れてしまっている「坂本龍一」を卒論の題材として扱うことで、私が彼に抱いている上記のようなイメージを客観的に見てみたいと思うようになった。
 以上のテーマと題材をふまえて、「『坂本龍一』自身が、消費社会における「モノ」と「行為」の関係のなかで、いかに『自分らしさ』を作り出していったか?」ということを「消費記号論」を通して見ていきたいということを発表した。具体的には、実際に見ていくための材料として、「彼が『自分』をどう語っているか、ひとが『彼』をどう語っているか」という言説を集めて、それらの言説を消費社会における「モノ」と「行為」の記号化の視点から考察し、私が憧れている「坂本龍一」というイメージがどのように出来上がっていったのかを明らかにしていきたいということを話した。
 それに加えて、坂本龍一という題材を考える前の、先週の時点で考えていた題材である「女子ジャズ」と、「坂本龍一」について、少しではあるが、取り上げられている文献や雑誌をあたって具体的に調べたことも発表した。


 以上の内容を発表したが、事前に作成したレジュメをもとに実際に話していくと、案外頭で考えていたよりも上手く言葉にすることができず、まだ整理されずに混沌としている状態であることを実感した。作成したレジュメは、自分が今まで考えたり調べたりしてきたことをまとめたものであったが、バラバラとしていて項目同士の関係性が整理できておらず、私の混沌とした頭のなかの状況がそのまま表れてしまっていたようにも思う。
 ゼミ生からは、「坂本龍一が言説のなかでどう語られたか」ということと「坂本龍一のイメージがどう作られたか」ということが区別して考えられていないという指摘や、目次案のなかで坂本龍一自身の経歴をまとめる章と、彼にかんする言説を取り上げる章とを設けているのだが、<経歴>と<来歴についての言説>が混同してしまうのではという意見をもらった。もらった意見は確かにそうであると思い、これから執筆していくにあたって考え直したり、気をつけたりしていこうと思った。
 先生からは、今までテーマや題材を考えるなかで、いろいろな本を読み勉強してきたというプロセスは無駄ではなかったというコメントをいただいた。また、坂本龍一を取り上げることについても、それでやってみなさいというコメントをいただいた。けれども、今回の発表内容については、いろいろなことを調べたり、考えたりしたプロセスは見えるものではあったが、全体としてそれらがどうつながっているかが分からないという指摘もいただいた。たとえば、言説を考察していくための道具として挙げた「消費記号論」が、言説のレベルの坂本龍一とは結びつかないという指摘をいただいた。つまりは、卒論を書くうえで必要になってくる、「構成をロジカルに組み立てる」という部分ができていないということだった。また、「自分らしさ」が実在するという前提で考えてしまっているという指摘をいただき、あくまでイメージでしかない「自分らしさ」というものと、その実体とを混同して考えているというコメントをいただいた。それは、イメージは実体を表したものではない、ということだった。この点は、「坂本龍一」を題材として考えていくときにも同じように言えることで、「坂本龍一らしさ」というイメージをめぐる言説のせめぎ合いはあるけれども、それは実在する坂本龍一とはつながる根拠のないものであるという話をしていただいた。


 今回の発表を経て、私は題材を「坂本龍一」に決定した。今後は、「坂本龍一」にかんする言説を集めて分析していくことによって、「坂本龍一」というイメージがどう作られているのかを明らかにしていきたいと思う。また今回の発表で、集めた言説を分析するためのツールとして考えていた「消費記号論」が、言説と直接結びついてくるものではないということが分かったため、分析ツールの部分に関してはいったん保留とし、言説を集めて調査したり執筆したりしていくなかで、新たにどうしていくのか引き続き考えていきたい。