なっつ
~口頭試問振り返りレポート~

 今回は、第4回ゼミ内発表を終えてから、1月9日に卒論を提出し、そして24日に口頭試問を終えるまでを振り返っていきたいと思う。10月に行われた第4回ゼミ内発表で、私の卒論のタイトルは「『就活』の社会史――新卒一括採用方式の成立」に決まった。(詳しくは第4回発表振り返りレポートをご覧ください)
 具体的な研究方法としては、大学生の新卒一括採用方式が日本の社会のなかでいつどのように成立し定着したのかということを、先行研究をたよりに位置付け、そのあとでその新卒一括採用方式において大学生の「就活」がどのように行われてきたのかということを、新聞記事を用いて具体的に見て行くということになった。
 そこでまず私のやるべきことは、日本における就職の始まりを遡り、そこから大学生の就職がどのように行われてきたのか、新卒一括採用方式がいつどのように成立し定着したのか、その歴史をまとめることであった。そしてそのうえで、新卒一括採用方式における大学生の「就活」の様相を見て行くにはどの年代が重要なのかを判断し、新聞記事を見ていく年代を決定する必要があった。なぜなら、会社による新卒一括採用方式が始まったのは大正時代のことで、そこから現代までの大学生の就職に関するすべての新聞記事を見て行くのはあまりにも膨大で茫漠としてしまうからである。そのためこの論文のテーマに沿って、扱うべき年代を自分で考える必要があった。


 このように自分の論文の方針が決まったにも関わらず、私は10月23日に第4回発表を終えて以降、11月の下旬まで、ただなんとなく就職に関する文献を読み、それをまとめるということしかしていなかった。つまり、論文の本体となる部分の前提となる部分にしか手をつけていなかったのだ。私の論文の本体となるのは、新聞記事による調査であったが、その新聞記事を扱う年代も、高度経済成長期あたりを見ていきたいという話をゼミ生にしていたものの具体的な理由がなく、細かい年代は決めていなかった。今振り返ってみれば1月8日の提出まで2ヶ月もない時期にそのような状況では、取り組みが遅いということは明らかだ。しかし、正直に言うと当時の私にはそのような自覚や焦りがあまりなかった。
 私は、夏休み以降卒論について考えることを後回しにしていた。それは、ゼミ合宿と夏季集中講義を無事に終えた達成感から脱力し、そのあと何もせず、卒論についても考えない日が何日か続いたことで、何も考えないという楽をしてしまい、だんだんと卒論についてよく考えるということが億劫になっていき目をそむけてしまったからである。そのような状態であったため、卒論提出までのスケジュールを見通して自分が今なにをやるべきなのかということも考えることができなかったのだと思う。このように卒論執筆が進んでいないにも関わらず、私は就職の歴史についての文献を読み、まとめていることによって卒論執筆を進めている気になっていた。無意識のうちに自分をごまかしていたのだ。こうしていつまでたっても卒論執筆が進まず、扱う年代すら決めない私は、11月27日のゼミで長谷川先生から、「<なっつ>はやる気を失っているように見える」と指摘され、そこではじめて自分の卒論なのに丸投げをしているような状態に気づき、情けなさを実感した。自分が夏休み以降ずっと、言い訳をして卒論について考えたり、執筆したりすることを先延ばしにしてきたのだと気づいたのだ。
 そこで、新聞記事を扱う年代を早急に決め、11月30日あたりから、新聞記事集めを始めた。扱うことにしたのは、1945年から1973年の28年間である。この1945年から1973年という年代は、第二次世界大戦後から高度経済成長期が終わるまでである。高度経済成長期には、この論文の核である新卒一括採用方式がブルーカラーにまで広く定着したが、それには第二次世界大戦中の統制による大卒生が勤労者化し、ホワイトカラー職員も、ブルーカラー労働者も皆同じ勤労者となったという背景があることから、戦後から高度経済成長期の終りまでを扱うことに決めたのだ。
 扱う新聞は朝日・読売・日本経済・毎日の4紙と決めた。主要な全国紙ということでこの4紙にした。そしてこれらのデータベースで「就職」や「学生」などと検索してでてきた記事を読み、大学生の就職に関するものをプリントアウトするという作業を繰り返していた。しかし、日本経済新聞と毎日新聞は、記事が検索に引っかからず全く集まっていない状況であった。28年間で1度も大学生の就職に関する記事がないというのは考えられないことであったが、このとき私は自分でどうにかしようとせず、ないものは仕方がないというように考えていた。そして12月に入ってから先生に日経と毎日の記事が見つからなかったと報告した際、検索に引っかからなかっただけで、縮刷版など自分で調べればいくらでもあるのだから特に日経新聞の記事は必ずあたるようにと指摘された。先ほど述べたようにこの論文の本体は新聞記事の調査によって大学生の「就活」の様相を明らかにすることである。だから、そのための新聞記事は、出来る限りきちんと集めなくては論文の信頼性が疑われる。そんなことさえ気づくことができなかった自分に腹が立った。
 それからは国会図書館に通い、日本経済新聞の縮刷版から大学生の就職に関する記事を捜して印刷した。そして結局、こうした取り組みの遅さから毎日新聞の記事には当たることができなかった。縮刷版に一冊ずつ目を通すのは、索引があるといってもデータベースで検索をかけるのとは違って時間がかかった。この時私はやっと、もっと早くやるべきことを考え行動するべきだったと後悔した。10月が終わる頃には歴史をまとめ終え、遅くとも11月の頭から記事を集めながらその記事を整理していくべきであった。
 12月の中旬にはこうして記事集めをしながら、その記事を読み論文を執筆した。しかし最初は膨大な新聞記事をどのように整理すればよいのかわからず、論文の執筆が全く進まなかった。そこで、1年ごとに、どのような記事があるのか書き出し、同じ内容の記事が多いところで年代を区切り、その記事でどのようなことが言われているのかを執筆していったのだ。しかし執筆してみると、ただ記事に書かれていることを要約したり組み合わせたりしているだけで、記事からわかること以上のものはわからないような文章だと感じた。そこで、他のゼミ生が実践していたやり方などを、自分なりにとりいれてみたいと考えた。たとえば、<サラダ>は卒論で坂本龍一に関する言説を集めていたが、先生から、ひとつひとつの記事はそれだけで成り立っているのではなくそれぞれ関わりあっていると指摘されたことから、それがどう関わりあっているのかということを意識しながら執筆しているというようなことを言っていた。そこで私も同じ年代の、違う記事同士の関わりを意識しながら執筆してみようと考えた。そうすることで、記事には書いていないことが、何か発見できるかもしれないと考えたのだ。
 しかしそれはあまりうまくいかなかったように思う。原因は、そもそも集めた新聞記事の整理を丁寧に行うことができていなかったからだ。先に述べたように私は新聞記事を集めたり、執筆したりすることを先延ばしにしていたため、記事を集め終えて執筆に取り掛かったのは12月半ばのことだった。いよいよ焦りを感じていた私は膨大な記事をとにかく整理しなくては、とかなりおおざっぱな分類の仕方をしてしまったのだ。つまり、何度も記事に取り上げられているようなことには注目したが、少数の記事にはあまり目を向けなかったのだ。そのため年代の区切り方も、非常に恣意的なものになってしまった。そしてそのなかで記事同士の関わりを見て行こうとしても、そもそも記事としてたくさん取り上げられていることばかりに注目し、少数を排除したために結局は恣意的な見方になってしまったのであった。このようなことに薄々気づきながらも執筆を続け、結局は自分の卒論にも関わらず、後悔を抱きながら執筆することになってしまった。
 12月25日には、以上のようなやり方で考察以外を執筆し、ゼミ内提出をした。長谷川ゼミでは1月の卒論提出の前に、ゼミ内提出日を設けており、自分の卒論を考察以外の部分を一旦書き終え、メーリス上で提出することになっていたのだ。そしてそれ以降の卒論執筆は先生から言い渡された3日ごとのスケジュールで進めていくことになっていた。28日までは考察を、31日までには註、文献、目次、要約などの付きもの類を完成させ、1月3日までは論文の内容の見直しをし、6日までは全体の見直しを終え、7日に印刷をして最終確認をするというスケジュールだ。しかし私はこのスケジュールを充分に守ることができなかった。本文がまだ完全なものではなかったからだ。そのため、1月3日を過ぎても本文の直しや執筆を続けていた。また、この提出が差し迫った時期であるということに言いようのない焦りを感じ、焦るばかりでむしろ何も手につかないと言うような状況に陥った日もあった。そんな中で苦手なものは後回しにしてしまい、12月31日までに終えておくはずであった論文の英要約が提出日になっても未完成という状況であった。今思い返してもひどい状況である。焦ってもしかたがないのだから、計画性をもって、その日にすべきことをきちんと終えるべきであった。


 結局私は他のゼミ生より1日遅れて1月9日に卒論を提出した。切羽詰った状況で執筆していたために睡眠をとることができず、提出日になって寝坊してしまったのだ。全て自業自得だ。ゼミでは8日に全員提出しようということになっていたのに本当に情けないことであった。そして提出した直後に感じたのは、安堵感でも解放感でもなく、卒論と向き合えなかった自分の情けなさであり、後悔であり、悔しさであった。その思いは卒論提出から何日か経っても変わらなかった。
 そして一週間後にゼミがあり、先生から1月24日に行われる口頭試問の説明を受けた。そして口頭試問では10分間、自分の卒論について発表し、その後先生から講評や質問があると言い渡された。同時に先生からは発表のために原稿をつくり、何度も練習をするとよいと言われた。そのためゼミ生同士で、集まる機会を設けて練習をすることになった。しかし、自分の卒論について発表するとなると、もちろん自分の卒論を振り返らなくてはならない。当たり前のことであり、大切なことであったが、私は頑張れなかった自分を認めるのがとても怖く、なかなか卒論を読み返せずにいた。少ししてゼミ生同士で集まって発表の練習をしようと決めた日が近づいてきたため、腹をくくって卒論を読み直しながら、原稿を作りはじめたが、発表はとても10分におさまるような長さではなく、だらだらとして要点をつかめないものになった。そのとき私は、自分の卒論自体が、何を言いたいのかわからないような、自分ですらポイントを絞れないものになっているのだということを実感した。それがわかると余計に自分の書いた卒論と向き合うのが怖いと感じた。
 結局、ゼミ生同士の集まりには用事やアルバイトなどの関係であまり参加することができず、私は口頭試問の日の直前にゼミ生に自分の発表を聞いてもらった。その時、<あっこ>から、発表原稿のなかに「たとえば」というようなことがでてくるのは、自分の卒論のポイントが絞れていないからだと思うと指摘された。私の発表のなかにはいくつかのたとえが挿入されていた。具体的な話を入れたほうが説明しやすいと思っていたが、それは自分の論文について簡潔に説明することができないということであり、<あっこ>の指摘はその通りだと思った。


 こうして迎えた口頭試問では、発表を終えてまず先生から、何を言われると思うか、と問われた。私は、結局最後まで頑張りきれなかったこと指摘されると思うと答えた。先生はその言葉を聞いて<なっつ>は全然頑張っていなかったのであって、頑張りきれなかったということではない、自分をごまかしてはいけないとおっしゃった。先に述べたように私は、卒論を提出しても晴れやかな気持ちになれず、むしろ落ち込んでいた。それは自分が頑張ることができなかったからだと自覚しているつもりだった。しかしここまできてなお、無意識のうちに言い訳をしたり自分をごまかしたりすることをやめることができていなかったということに、自分でも唖然とした。
 また、卒論の内容に関しても、「就活」に関してどのように成立したのか自分で知ろうとしていないし、明らかにしていないと指摘された。実際その通りで、私は先行研究や新聞記事を無批判にただまとめているだけであった。結局この卒論が、何も賭けず、全てを丸投げにしてチャレンジしてこなかった私を映しているということが痛いほどよくわかった。
 この口頭試問を終えて、自分だけでなく他のゼミ生の卒論発表や講評も聞いて思うのは、やはりこの1年を無駄にはしたくないということだ。ゼミ生のなかには、ゼミに入った当初からこの1年を通してとても成長したように思えるゼミ生や、これからの自分の自信になるような卒論を執筆したゼミ生もいた。そのようなゼミ生を見て、私もこの1年をこのまま無駄にはできないと思ったのだ。私は、このゼミ活動の後半、ブログなどでも、言い訳やごまかしてばかりの自分の情けなさに気づいたと言い続け、しかも本気で気づいたと思っていた。しかし実際には、口頭試問で先生に指摘されたように、言い訳をしたり自分をごまかしたりすることをやめることができていなかった。気づけていないことにすら気づけていなかったからこそ、卒論執筆中もその姿勢から変わることができず、後悔の残るものになったのだ。気づいた、と言うのは簡単だ。でも、そこから変化する努力をしなければ意味がないのだ。
 私は、これまでサークル活動などゼミ以外のどのような場でも、自分で物事を考えようとせず、わからないと言って誰かが教えてくれるのを待っているような姿勢でいた。そのことにも、ゼミ活動のなかで気づいたつもりでいたが結局は変わることができていなかったのだと思う。だからこそ、これからは自分の知らないこと、わからないことがあったら他人任せにせず、自分で調べ、知識を深めていきたいと思う。今回の卒論についても、結局自分の問いを明らかにできていないままだ。もう一度、きちんと文献にあたることからはじめてみたいと思っている。頑張れなかった自分、言い訳をしてきた自分、ごまかしてきた自分に気付いたということを出発点として、まずは一歩踏み出したいと思う。