なっつ
~第1回、第2回発表振り返りレポート~

 まず、4月に行われた第1回の発表を振り返ろうと思う。
 私は先生から第1回発表の内容は「好きなものについて、そしてそれが自分にとって どのようにおもしろいのか」だと言われたとき、自分の好きなものや関心があるものがす ぐに思いつかなかった。そしてそのように、胸をはって好きだと言えるものがないという ことは、好きなものがある人に比べて自分が劣っているように思えて、これまでずっとコ ンプレックスだと感じていたことだった。しかし発表の場では、はっきりと好きだと言え るものについて述べなければいけないと思いこんだ私は、そのコンプレックスには気づか ないふりをするような形で、自分が好きだと思えるようなものを3つしぼりだした。それは 私が普段の生活の中で考えたり、触れたりする機会の多い「少女漫画」「服」「音楽」の 3つである。そしてそれが自分にとってどのようにおもしろいのかということを考えようと した。
 そのために私はまず、発表の準備として少女漫画について文献を読んだ。そして少女 漫画が自分にとっていかにおもしろいのかということを考えたのだが、その際、文献に書 いてあることと自分自身のことを端的に結びつけてしまった。例えば、少女漫画のモチー フの核心は男の子たちからの自己肯定である 、ということや、少女漫画には、主人公の少 女をありのままを受け止めてくれる異性が現れる、といようなことを文献から読み取った。 そしてそれを「私が少女漫画をたくさん読むようになったのは実生活の中で自分の居場所 がないと感じていたから。ありのままを受け止めてくれる漫画の中に自分の居場所を見出 した。」というように意味づけてしまったのである。 それは、私自身が強くそう感じたこ とではなく、文献に書いてあったことを自分の状況とあてはめただけであった。また、準 備にとりかかるのが遅く、「服」と「音楽」に関しては文献を読むことができなかったが、 少女漫画のときと同じように無理やりに自分自身の状況と好きなものを並べて結びつけ、 好きな理由を考えようとしてしまった。
 上で述べたように、今回の発表の3つの題材は「好きなもの」を発表しなくては、と いう思い込みからしぼりだしたものだった。だから私は、発表で取り上げたそれらが実際 に好きなのかどうかよくわかっていなかった。そのうえ、読んだ文献と照らし合わせるよ うな形で、それがどのように好きなのかということを無理やりに意味づけてしまうだけに なってしまった。発表の準備の段階、そして発表しているときでさえ、自分は本当に「少 女漫画」「服」「音楽」を好きだと言えるのか、切実に発表したいようなことなのか、と いう疑問や違和感があった。自分にとって切実なことを率直に話すということを1番に心が けたつもりだったが、結果としてはそれを果たすことはできなかった。

 だから、第2回の発表では「好きなもの」というよりはもっと自分が日頃から感じて いることや気になっていることを話し、より切実なことを、率直に話したいと思った。そ こで、自分が何を好きなのかわからないということや、好きなものがないということから 感じられる劣等感について率直に話そうと思った。そのことを考えているときに、第1回 の発表が終わった後の打ち上げの席で、昨年の長谷川ゼミのゼミ長である<かわしま>さ んとお話させていただいたことをぼんやりと思い出した。私はそのとき、発表するにあた って好きなものがすぐに思いつかなかったことと、好きなものがあるオタクに憧れている という話を打ち明けたのである。そこで第2回はまず、「オタクへのあこがれ」について 話すことを決めた。
 そしてその後で、改めて普段から疑問に思ったり、考えたりしていることを思い返 してみたときに「女子力」という言葉が思い浮かんだ。日常生活の中でよく女子力という 言葉を耳にし、実際私も使うことがある。女子力というのはどちらかというと肯定的な言 葉で、女子力があるほうが良い、というイメージがある。
 例えば、大勢でご飯を食べにいったときに率先して料理をとりわけてくれる女子に対 し「さすが女子力あるね~!」と言うことや、いつもスニーカーばかりでヒールを履かな い私は「女子力がない」と言われることもある。女子力というのが、なんとなく持ってい たほうがよいものだという雰囲気があるように感じている。しかし(めったに言われない ことだが)「女子力あるね」と自分自身が言われると、なんだかお世辞にも嬉しいとは言 えない妙な気持ちになる。そもそも女子力と何なのか 。「女子力って言うけれどそれって 誰が決めたの?異性から見た理想の女子ってことなんじゃないの?」という疑問や違和感 を抱いており、「女子力という言葉への違和感」についても話すことにした。

 率直になること以外に、第2回の発表で気をつけようと思ったことは文献の扱いかた である。第1回の発表のときには、自分がどうしてそのものが好きなのか、ということを、 文献を頼りに考えようとしていた。しかし第1回発表終了後の先生からの講評を聞いて、文 献は、自分が発表で扱うものについてのバックグラウンドなどを知るために読むべきなの だと感じた。つまり、それをどうして好きなのかを考えるのを文献に頼るのではなく、そ もそも自分が扱おうとしているものがどういうものなのか、その一端を明らかにするため に文献をあたるということである。そこで私は今回「オタク」というものが何なのかを明 らかにするために本を読んだ。
 しかし、発表を終えた後で先生から指摘されたのは、「その本を書いた著者は学者で はなく、この本は学術的なものとして書かれたものではない 。」ということだった。だか ら、そこに書かれていたオタクの定義というのも、その著者が学術的な根拠を持たずに言 っているものだった。しかし私は本に書いてあるのだから正しいのだろう、と違和感を持 たずにそこで述べられていることを鵜呑みにしてしまった。
 私が「オタク」について知るためにこの本を選んだのは、題名に「オタク」という言 葉が入っていたからであり、その本が学術的なものかどうか、どのような内容なのか、と いうことを一切考えずにただ読んでしまったのである。このことは、そもそも1冊読んでな んとかしようとしていた怠け心や準備不足も原因のひとつだと思う。
 また、「女子力」に関しては適当な文献を見つけることができず、インターネットに 記載されている記事に頼ってしまったので、そこに書いてあることを鵜呑みにせず、感じ た違和感について自分の考えを交えて話した。これは、書いてあることに違和感を持って 接することができたという点では良かったかもしれない。しかし、「女子力」という言葉 が結局異性から見た理想の女性の姿であり、性役割のようなものなのではないか、という 私の持つ違和感をひもといていくために必要なジェンダー について、いくつかの文献をあ たって勉強するということはできておらず、「オタクへのあこがれ」にしろ、「女子力へ の違和感」にしろ、文献の扱い方については大きな反省が残った。
 今後は、その文献がどのような学術的なバックグラウンドがあるのかということをき ちんと把握した上で選ばなければならないと思う。また、何かを明らかにしよう、知ろう、 とするならば、1冊の文献でなんとかしようとせず、何冊か文献をあたることが重要だと思 う。その際、そこに書いてあることをすべて受け入れるのではなく、疑問や違和感を大切に しながら読みたいとも思う。

 ここまでは、第1回の反省を2回の発表でどう活かそうとしたか、(そしてそれがいか に失敗したか・・・)について述べたが、ここからは第2回の発表を終えての反省を述べたい と思う。最大の反省は2つある。
 まず1つは「考えられていないこと」である。私は、発表の後のディスカッションの 際、先生から「どうして何か好きなものがなければいけないのか?」と投げかけられた。 そして第2回の発表終了後に行われた打ち上げの席で、卒業生の先輩方に発表の内容を聞い ていただいたときにも、「何かすごく好きなものがあることが、アイデンティティがある ということだと思いこんでいるように見える。」というような指摘を受けた。私が考えな くてはならなかったのは、ではなぜ、そのように思い込んでいるのか、抱いていたコンプ レックスや劣等感とは具体的にどんなものだったのか、ということであった。「好きなも のがなくてはいけない」というように自分の中で当たり前のことだと思いこんでいること を「なんで?どうして?」とつきつめて考えていくことが必要だったのである。そうでな ければ「私には好きなものがないから、好きなものがあるオタクにあこがれている」とい う風にすぐ結論が出てしまう 。そしてその「当たり前」として思い込んでしまっている ことは、今回私自身がそのことに気づけなかったように、ひとりで考えこんでいても気づ きにくいことだと思う。だからこそ、ゼミ生とたくさん話をしてお互いに「なんで?どう して?」とつっこみあうべきだったのである。これまで、私たちには互いに話し合うこと が圧倒的に足りず、 それがゼミ全体の最大の反省点でもあると思う 。今後はゼミ生たち と、たくさん話をしたいと思う。ゼミの集まりの際はもちろん、それ以外でも、ご飯を食 べながら、一緒に帰りながら、もっとたくさん話をしたい。
 そして、反省すべき2つ目は「卒論を書くということを見通せていなかったこと」で ある。私は発表の後のディスカッションでゼミ生から「卒論をすごく書きたいという気持 ちが見えてこなかった。」という意見や「<なっつ>はどうして卒論を書きたいのか」と いう質問をもらった。そこで私は今更ながらこのゼミ活動の最終目標である卒論執筆とい うことを考えられていなかったことを痛感した。私は、これまでに2回行われた発表を、卒 論のための全4回(予定)の発表、という流れで捉えることができておらず、1回1回をぶつ ぎりに捉えていた。そのために、卒論を念頭に置くことができず、卒論のためにどんな発 表にしていきたいかということも考えられていなかった。それにもかかわらず都合良く、 発表を重ねれば何か卒論のテーマが見えてくるのではないかと、とんだ勘違いをしていた。 それも、第2回の発表を終えて自分が第1回発表のときからほとんど成長できていなかった という事実によって今更その勘違いに気がついたのである。自分の卒論なのだから、自分 で必死に考える以外にテーマが決定することはありえない。これまで、そんな当たり前の こと に気がついておらず、他人任せの姿勢でいたのである。
 卒論を念頭に置くことができていなかったということは、目次案にも表れていた、 と言ってもよいと思う。第2回の発表では、発表する主題で卒論を書くことを想定して目 次案を作成してくるということだったが、私はそれを勘違いして発表自体の目次を目次案 の形式で作ってしまった。実際、このような勘違いをしていたのは私だけであり、卒論と いうものに対する意識の低さが、こういった場面でも表れていた。

 現在は、これらの発表の反省を無駄にしないように、まずは「好きなものがあるこ とで自分が確立できる、アイデンティティがある、と思っている自分」というのは何か、 ということを、思いついたことを紙に書いたりしながら、考えているところである。これ からのゼミ活動の中で、考えたことをゼミ生に話したいと思っている。そして「なんで? それはどうして?」とつっこんでもらい、また自分で考え、話聞いてもらう、という良い 循環をつくりだしていきたい。また、自分が話を聞いてもらうだけでなく、私自身も他の ゼミ生の話を聞いてたくさんつっこみ、ひとりでは気が付けないことに、皆で気づいてい きたいと思う。