きぬ
 今回のレポートでは第4回発表後から卒論執筆、そして1月24日に行われた口頭試問について振り返りたいと思う。
 第4回発表を終え、私は引き続き国会図書館で『韓流ぴあ』(2006- ぴあ株式会社)のバックナンバーを調べ、韓国の芸能人がTwitterをはじめとするSNSについて、自身のファンについて述べている所をまとめていった。実際にまとめて読んでみると、日本の韓流・ファンコミュニティが韓国のファンコミュニティに似ていく様子など、変遷を追うことはできた。しかしながら、執筆している途中でも要点を掴めているという実感が持てず、モヤモヤとしたままイェソンファンへのインタビューを扱った章の執筆に移った。
 第4回発表振り返りレポート(第4回発表振り返りレポートリンク)では、インターネット掲示板を見て、イェソン・ファンコミュニティについて述べる予定だと書いたが、その後長谷川先生と相談した結果、イェソンファンにインタビューを実施することに決定した。インターネット掲示板の調査は、調査方法を学ばなければ実のある内容にならないため、現在の私では実行することが難しいということで断念した。また、私自身が、自分がイェソンのファンになる前までのファンコミュニティの様相を知らなかったため、その時期について調査する必要があった。よって、インタビューを施行するに至ったのである。そして、Twitterにて協力者を募ったところ、9名のイェソンファンが集まった。彼女たちには主に「イェソンのファンになってから現在までどのようなファン活動を行なっているのか」「Twitterをどのように利用しているか」について重点的に質問をした。他のイェソンファンのあり方について自分と異なる点などを発見し、私にとって卒論を執筆していてこの時が最も楽しい時間であった。しかし、自身のファン活動についてとても熱心に回答してくれたりして嬉しいと感じた反面、果たしてうまく論文に活かせるかがとても不安でもあった。  以上の2つの行程を終え執筆のための準備が整ったところで、いよいよ本格的に論文の執筆に取り掛かった。この時点で既に11月の半ばを過ぎていたように思う。私たち長谷川ゼミ生は一度、12月25日までに考察以外の章ををすべて書き上げ、メール上にて一度仮提出をしなくてはならない。11月半ばから12月半ばまでで4章と5章を書き終え、それ以降は、第4章で扱った「韓流ファンコミュニティ」と第5章で扱った「イェソンファンに行なったインタビュー」の内容を合わせた第6章を執筆していた。しかしどうしても自分の考えから抜け出せていないというモヤモヤした感情が付きまとっていた。この頃から自分の論文が「イェソン・ファンコミュニティのファン活動とTwitterがいかに合致しているのかただ紹介している文」になっているように思えたのだ。学術的に述べているのではなく、ただ自分の体験を元にイェソン・ファンのTwitterの使い方のマニュアル本になってしまっていた。しかし時間は無情にも過ぎていき、12月25日の仮提出では形としては書き上げて提出したが、全く納得のいく形ではなかった。  年末は宮城の実家で執筆に取り組んだ。25日以降はスケジュールが組まれており、ゼミ生全員がそれに従って論文を執筆していた。25日から28日は論文の考察の章を書き終えることになっていた。私は考察を執筆すると同時に、既に書き終えた箇所ももう一度見直し、加筆修正を行っていた。しかし、それらをすればするほど次々と直したい箇所が出てきてドツボにはまっていく感覚があった。変に焦りばかりが増え、「きちんと自分の立てた問いに対して応えられている論文」に近づいているという実感がなかったのだ。そうこうしているうちに28日を終えて、次のスケジュールに移った。「28日までに、自分が書きたいことはすべて吐き出しておくように」と先生からお話されていた。28日が過ぎてからは残された時間が少ないということもあり「これが自分の実力なのだ」と受け入れ、内容の見直しをやめ、論文内の註の見直しなどを行った。年末年始は目次や註などの付き物の作成、1月1日から3日までは論文の全体を見直していた。せめて誤字脱字は絶対ないようにしようと、目を皿のようにして自分の論文をチェックしたのを覚えている。そのときに初めて一度印刷してみたのだが、パソコンの画面上ではなく実際に紙に印刷された自分の論文を手にしてみて、なんとも言えない気持ちになった。論文の厚さが、今の自分の実力を物語っていた。まさに現在の自分の厚さのような気がした。「やりきった!」とも言えず、かわいいような憎らしいようななんとも微妙な位置の論文であった。
 それから神奈川の家に帰り、最終チェックをしていると、信じられないことに目次で書いてあるタイトルと実際の章の頭に書いてあるタイトルが一致していないことに気付いた。今思い出すだけでも胃が縮まるような思いだ。それも前日の夜であったため、本当に焦ったことを覚えている。それでも更に余計なミスを生まないように深呼吸をしながら修正をした。最後の最後にこんな大きなミスが見つかるなんて……と自分に呆れつつ製本作業を続けた。その上結局1度刷って再度誤植が見つかり、計3回ほど印刷をした。最後までキレイに終えることができないところに詰めが甘いという自分らしさを感じつつ、なんとか私の卒業論文ができあがった。嬉しさのあまり深夜に様々なアングルから自分の卒論を撮影する様子は、はたからみたら異様な光景だっただろう。
 翌日、自分の卒論を提出するときは渡したくないような早く手放したいような、やはりどちらとも付かない感情であった。提出し終えたあと、ゼミ生数人で提出の報告も兼ねて長谷川先生の個人研究室に伺った。先生が「お疲れ様」とおっしゃった瞬間、やっと卒論が終わったという実感が湧いてきた。  そこから数日、友人と遊んだりしてゆっくりと過ごした。しかし、1月24日に口頭試問が控えている以上、私達の卒論は完全に終わったとは言えない。1月15日に最後のゼミ活動が終わり、そこで口頭試問についての詳しいアナウンスがあった。そこからというもの、口頭試問の準備のために自分の論文と改めて向き合うのが本当に怖くて仕方がなかった。内容はもちろんのこと、もし誤植が見つかったらどうしよう、といろいろな心配が浮かんだ。口頭試問に向けて、自分の論文についての発表用の原稿を作成した。口頭試問では過大評価・過小評価、どちらもしてはいけない。そのどちらかの行動をした途端、「卒論に映し出された現在の自分」をしっかりと理解できなくなってしまうからだ。その点に気を付けつつ、客観的に自分の論文に向き合うように努めた。原稿を完成させてからはゼミ生で読み合わせの練習を行った。
 そして24日の朝、先生から口頭試問の順番がメーリス上で発表された。私は1番目であった。そのメールを見たのは家の最寄り駅のホームだったのだが、Uターンをして家に帰りたい気持ちになった。自分の論文の評価を聞きたいという気持ちもありつつも、やはり恐怖のほうが圧倒的に勝っていたのだ。学校に到着し、ゼミ生で発表内容の最終確認をしていよいよ口頭試問本番を迎えた。台本を読んでいる最中、不思議と恐怖はなくなり「とにかくここで評価されることはしっかりと受け止めなければ」という気持ちになっていた。台本を全て読み終わり、いよいよ先生からの講評の時間となった。始めに、「ここで扱っているコミュニケーションとはどのような事か」という質問を受けた。この質問の内容に関しては、まさに自分が論文を書き終えて感じていた不足点を指摘されたという感じがした。そこでの私の回答は自分が「コミュニケーション」に対して抱いているイメージをただ羅列しているにすぎなかった。「相手が少なくとも複数いて、お互いに意志疎通している状態」など、しっかりと学んでいないことが分かるような回答だった。その後もいくつか質問をされたが状況は変わらず、1つも自信を持って答えられたものがなかった。質問が終わり、論文の評価にうつった。主査・副査共に同じぐらいの評価だったというお話をしていただき、端的にまとめると「雑誌やインタビューを通して調査は行っているが、羅列しているだけで何を論じているのか分かりにくい」「テーマについて再度述べているだけであり、新しいものを論じられていない。同語反復の状態」という評価をいただいた。つまり、自分で設定したテーマについて詳細に述べているだけであり、そこから何も新しいものを論じられていないということだった。また、「モヤモヤした感情が付きまとっていた。」と前述したが、先生からの「自分の中にもともとあったTwitterに対する考え方から抜けられていない」とのコメントを聞き、自分の考えの枠組みから抜け切れていなかったことを再度痛感した。
この評価を聞いたとき、12月半ばのことが思い出された。ちょうど最後の第6章を執筆していた時期である。どうしても自分の思考の枠組みから出られていないという状態が論文から如実に現れていることで実感した。そしてそれは、今までの本を読んで自分の知識を増やすなどの積み重ねが足りなかったからだと言える。執筆当時、「なぜ自分の考えが全く進まないのか。同じところをグルグル回ってしまうのか」と考えたとき、物を考えるときの材料が足りないからだと痛感していた。また、自分の考えの枠組みから脱することができないのは今にはじまったことではなく、ゼミが始まった4月から言えることであった。テーマ決定までの中間発表の場でも、先生やゼミ生から「自分の考えから抜け出せていない」とのコメントをもらうことが多々あった。先生からは、今の私がするべきことは、「論文から出ているものをいかに汲み取るか」だと指摘していただいた。卒論を書き終えてもなお、4月の時点と根本的に変わることができなかったことに悔しさを感じるが、それよりもこれからいかに変わるかが重要である。そして、今現在自分の卒論そのものや、これまでの卒論に対しての取り組み方について改めて考えてみて、「詰めが甘い」「どこか他人事」ということが顕著に表れているように感じる。これらのことは今回始まったことではなく、長い間の私の悪い癖であった。現在、私はそれらの悪い癖を直す最後の機会であると考えている。4月から社会人になるため、それが自分の中での大きな区切りとしているからだ。それともう1つ、私は人に相談を持ち掛けることが苦手だということも論文執筆を通して改めて実感した。相談を持ち掛けようとしても、なんとなく遠慮をしてしまって自分で解決しようとしていた。ゼミに入るまでは友人と話していても私は聞き役になることが圧倒的に多かったのだが、それで何も問題なく過ごしていた。相談を持ち掛けられても「相手が言ってほしいこと」の正解があるような気がして、当たり障りのないことしか言えていなかった。こうして考えてみて、今までは本気で意見を交わす機会を極端に避けていたように思う。しかし、このゼミ活動では自分の考えを積極的に外に出し、自分以外の人の意見を吸収しなければ何も進まないということを、身を以って知った。
 もともとゼミには「大学4年間勉強してきたことの集大成がほしい」といったような理由で入ることを決めた。入った当初は、卒論を書き終えたらその瞬間に完結するものだと考えていた。しかし、現在実際終えてみて、そんなことは全くなく卒論を書くことで気付くことができた、これから考えなければいけない事、実行していかなければならない事がたくさんある。今年の3月に学生生活を終えるが、まずは内に籠ることをやめて、色々なものに必死に食らいついていくようにしたい。この卒論は私に「今までの人生で必死になったことが少ない」ということに気付かせてくれたと思う。卒論執筆ももちろんのこと、ゼミ活動全体を通して今までの自分がいかに流されて生きてきたかを実感した。自分の忍耐力のなさを思い知ることになったのである。
今後、本を読むこと・文章を書くことなど日常的にこのゼミで行ってきたことは継続させていきたい。先ほど「『やりきった!』とも言えず、かわいいような憎らしいようななんとも微妙な位置の論文であった。」と述べたが、この論文の位置については私の今後の行動次第で決まってくるのではないだろうか。もしこの論文をきっかけとして変わることができたのなら、「論文を書いて本当によかった、1つのきっかけとなった」と笑えるだろうし、数年経っても成長できていなければ、そのままの姿をありありと映す、私にとって嫌なものになる。そのためには、今後自分のしたくない事にぶつかったとしても、今までのように楽な方向へ逃げるのではなく、このゼミ活動を思い出して必死にぶつかっていきたい。 この卒論を執筆した数ヵ月、ゼミで過ごした1年間で学んだことを今後に活かし、今度こそは自分の納得のいく成長を遂げたいと思う。