薫
~口頭試問振り返りレポート~

  昨年の10月に第4回ゼミ内発表を終えて、私は「坂口安吾の作品に おける『孤独』を読み解く」というテーマで論文を執筆することが決定 した。それまでずっと、自分の敬愛する人物であり、もう自分自身とは 切り離せないほど好きで居続けている「あさき(*1)」という人物にこだ わっていたが、改めて自分の問題を考えた結果、たどり着いたテーマが 坂口安吾作品の「孤独」だった。(テーマ決定までの過程については 第4回発表振り返りレポートをご覧ください)
 テーマが決まったあとは、坂口安吾のどの作品を扱うかを決めなくて はならなかった。彼の作品は処女作から遺稿まで含めると数百点ほどあ り、これをすべて読んでから決めるのは時間的に厳しいだろうと判断し 、私は作品の本文中の「孤独」という言葉の有無で作品を選ぼうとした 。「孤独」という言葉が表記されている作品にだけ注目しようと考えて いたのである。しかし、それをゼミで先生に報告すると、「その方法だ と『孤独』という言葉でしか表れていない『孤独』しか見られないこと になる。『孤独』という言葉を検索ワード扱いするのはやめなさい」と 指摘されてしまった。時間を気にするあまり、「安吾の作品における『 孤独』を読み解く」というテーマの本質を早くも見失いかけていたのだ と思う。ただ単に「孤独」としか書かれていない「孤独」、つまり表面 しか見ることができていなかったのだ。本来ならば、「孤独」という言 葉以外で表現された、パッと見ではわからないところにこそ注目すべき だったのだ。これはこれから卒論を書く者として反省すべき点であった 。また、私は文学が好きで、文豪たちの言葉を駆使したさまざまな表現 方法が美しいと思い、それを好いていた。「孤独」を検索ワードにする ような私の読み方は、文学を浅い目でしか見ることができていないよう な気がして、文学を好む者としても反省すべきだと感じた。
 そうして2週間ほどかけてなんとか坂口安吾の全作品を一通り読み終え 、私は卒論で扱う作品を『桜の森の満開の下』に決定した。安吾は自身 が幼い頃から孤独を感じていたのだが、それが自伝小説を始めとするさ まざまな作品に表れていたのだ。主人公が孤独を感じていたり、中には 安吾自身が主人公のモデルになっているであろうと思える作品も多々あ った。その中で、『桜の森の満開の下』が最も「孤独」が主要なテーマ として描かれている作品であると私は判断したので、この作品を選出し た。今思えば、なんとなくこの作品自体に私が惹かれていたことも、こ の作品を選んだ理由になっていたのかもしれない。好きな花である桜が メインだからなのか、登場人物に共感していたからなのか、それは今で もよくわからない。しかし、この作品が私のテーマに一番通じていると 、強く感じていたことは確かである。今考えると、このとき既に、主人 公である山賊の男に自分を重ねていたのかもしれない。
 それ以降は『桜の森の満開の下』をひたすら読んでいった。作品を講 読してそれを論文にするのだから、講読した経緯もきちんと論文に記さ なければと思い、第1章の序論、第2章の坂口安吾の生涯に続いて、第3章 に物語を丸々講読する章を設けた。この章では、作品が大きく4つの節に 分かれていることに即して、4つの場面ごとに執筆した。具体的には、ど の登場人物がどのような行動を起こし、どのような心情になっているか など、作品をとにかく細かく見て、書いてあるとおりのことやそこから わかることを執筆していった。
 しかし、そうして何度も読んでいくうちに、この作品の主人公である 山賊の男が、自分と重なるように思えてきてしまった。そう思い始めて からは、もう彼がまるで自分の鏡であるかのように思え、論文の執筆を 進めるのが苦しくなっていたほどである。山賊の男は、8人目の女房と 出会うまではずっと一人で、山で気楽に過ごしていた。山は彼にとって 自分の力が通用する空間であり、何も怖れるものがなく、何でも自分の 思い通りになる空間だったのである。それが、8人目の女房との出会いに よって壊されてしまったのだ。彼女はさまざまな不平不満を彼に漏らし 、彼に「相手を理解できないもどかしさによる苦しみ」などを与えた。 山賊の男は彼女の言動や行動によって喜んだりも苦しんだりもして、も はや彼のいる場所は「何でも自分の思い通りになる空間」などではなか った。そのような意味で、彼は自分の世界を壊されてしまったのだ。そ して次第に、彼は女を愛しながらも彼女を消してしまいたい欲求が増え 、最後には桜の下で彼女を殺し、そのときに初めて彼は大泣きするのだ った。
 私は、ゼミに入るまで、いや入ってからもしばらくは、女と出会う前 の山賊の男のように生きていた。自分以外の誰も入れない、自分のこと だけ気にしていれば良い空間を作り上げ、つらいことや寂しいことがあ ったらそこに閉じこもっていたのだ。その世界を作り上げる道具が、「 あさき」の作る曲、ヘッドフォン、安吾の「孤独」という言葉、そして 自分自身の「自分は自分、他人は他人」という考え方だった。そして私 は山賊の男のように、誰かに自分の世界を壊されそうになるとそれを排 除しようとしてきたのである。相手を攻撃したりすることはしないが、 「あなたはそう思うかもしれないが、私は違う」という壁を作ることに よってそれを行ってきた。前述のように、私は「寂しい」と感じるとき などに自分の世界に引きこもっていたのだが、今考えると寂しいのは当 たり前だと思う。私は勝手に壁を作り、自分で自分を寂しくしていたの だ。山賊の男を見ていると、そのような自分の悪いところを全部見せ付 けられているようで苦しくて、半べそをかきながら論文を書く日々が続 いた。
 12月の中旬にそれを先生に話したところ、「そういうところから考え ていくのが大切だ」という話をしていただいた。私はこのときようやく 、『桜の森の満開の下』を論文の題材に選んだ意味がわかったような気 がした。作品を読むことで、自分が今まで気付かなかった、あるいは見 ないようにしていた悪い部分に気付くということが大事なのだと思った 。また同時に、私の話は「私は安吾がこう表現したんだと思うんです」 「私にはこう見えます」というものばかりで、それはテクストの声を全 然聞けていないし、主観に満ちているので論文でやってはいけないとい う指摘も先生からいただいた。自分の悪いところにはなんとなく気付い ても、まだそこから抜け出せていなかったのだ。このときは論文を書く のが苦しいことと、他のさまざまな要因も重なり、精神的に弱っていた 時期だったので、先生の言葉ひとつひとつが重く心にのしかかった。そ れと同時に、私の話はいつも「私は」「私が」という言葉が入っており 、自分本位の考え方しかできていないということを痛感した。しかし、 先生は「やっと戦いのスタートに立てた」とおっしゃった。山賊の男と 自分を重ねることによって自分の悪い点や切実な点を自覚し、ようやく それらに向き合えたということなのだと思う。また、大切なのは自分を 消すことだというアドバイスもいただき、それ以降はとにかく、自分の 目線ではなく山賊の男の目線で物語を読んでいくことに努めた。
 しかし、冬休みに入って家での執筆が多くなると、執筆のスピードは 落ちていった。何回テクストを読んでも、作品に書いてあることしか、 つまり表面上の理解しかできず、早くなんとかしなければ何も書けない と焦っていたのも一因だと思われる。結局、論文では山賊の男目線で物 語を追うことしかできなかった。山賊の男の目線で読み込むことで、彼 にとって女と桜はどのような存在だったか、また彼は最後の場面でなぜ 消えてしまったのかなどを考えてそれを執筆することはできたが、そこ で止まってしまった。つまり、そこから論文の本題である「孤独」まで つなげて考えることができなかったのである。また、考える過程をその まま論文に記してしまったことも反省すべきだと考えている。私が論文 を書く際に必要なことは、とにかく何回も作品を読み込むことだった。 そうしたのは良かったのだが、それをそのまま論文に書いてしまったの で、読んでいる側としては何回も物語を読ませられているという風にな ってしまった。これは口頭試問でも先生に指摘されたことである。何回 も作品を読み込んで、その先に一歩踏み込んで深く考えることが重要だ ったと今ならば思えるのだが、執筆当時はそこまで考えが及ばなかった 。今思うととても悔しいことである。また、12月半ばに先生に相談に行 ったときに、「テクストを読み込むというのは奥が深い。ここまで理解 できれば良いというボーダーラインはなく、テクストに底はない」と言 われたことがとても頭に残っており、自分も何回もテクストを読み込ん で、テクストの表面だけではなく、今まで考えなかったことも考えられ るようになるまで理解したいという思いが先行していた。しかし、実際 に読み込んでみてわかったのだが、テクストを読むことには本当に底が なかった。読んでいる最中も、今自分がテクストの理解度で言えばどこ にいるのか、またこのテクストを生み出した安吾の想いを自分がどれだ け理解できているのか、そもそも安吾の想いまでたどり着けているのか 、考えれば考えるほどよくわからなくなってきた。そのせいもあり、だ んだんとテクストに向き合うことが億劫になってしまったことは否めな い。自分ができることは決まっていたのに、自分の考えや状況を整理す ることができなかったのだ。そのことも、大きな反省点であると考えて いる。
 他にも反省点はある。自分の論文の反省が碌にできていなかったこと 自体が大きな反省点だと言える。私は少なくとも、山賊の男目線で物語 を読むことによって、「孤独」の一端がどのようなものかを少しでも解 明できたと思っていたのだが、口頭試問ではそれを先生に否定されてし まった。私が執筆したのは「山賊の男の目線で考えたこと」に留まり、 本題である「孤独」については何も触れることができなかったのである 。安吾の「孤独」に私の論文が届かなかったことと、そのことにも気付 けなかったことが両方とも悔しく、最も大きな反省点であると考えてい る。口頭試問の際に先生は「論文は自分を映す鏡」だとおっしゃったが 、本当にその通りであると痛感した。チャレンジしたのは良いものの、 一番大切なところに行き着くことができず、肝心なことが今一つわかっ ていないということは、今まで自分本位の考え方をなんとなく自覚しな がらもなかなか本気で向き合えなかった自分の姿が出ていたのだ。自分 の発表の順番まではこれ以上ないというほど緊張していたが、発表が終 わってからは、反省点が多くて少し落ち込んでいた。
 しかし、その後の打ち上げで先生とお話をした際、「孤独について考 察することはできなかったけど、その『できなかった』という事実を受 け止め、これからどうしていくか考えることが大切だ」というアドバイ スをいただいた。私は今まで、何か反省点や問題点があれば、「ここは こういう風に直そう」という風に具体的な案をすぐに打ち出してしまう のだが、いったん立ち止まって「『できなかった』ということを受け止 める」ことができていなかったと感じた。落ち着いて、自分の力が及ば なかった点を見つめて、そこから考えることが必要なのだと思う。また 先生からは、自分の切実な問題にチャレンジしようとしたことは褒めて いただけた。
 そしてこれは口頭試問の際にも言われたことであるが、「自己憐憫と 嫉妬心には決して振り回されてはいけない」という言葉をいただいた。 私はこの言葉を聞いたとき、とても驚いた。自己憐憫、つまり自分自身 を哀れむということは第4回の発表でも先生に指摘され、自覚し始めたよ うに、自他ともに認めている私の反省点だったのだが、嫉妬心について は誰にも話したことがなかったからである。私は今まで、寂しさを感じ ている自分を自分で慰めるようにしてきた。それは紛れもなく「自己憐 憫」なのだと思う。また、嫉妬心については、私の今までの恋愛に必ず と言っていいほどついてきたものであり、自分でもこんなに嫉妬深い自 分が心底大嫌いだったのだ。嫉妬することによって自分も嫌な思いをす るし、相手にも嫌な思いをさせてしまう。何も良いことが起こらないの に、嫉妬を抑えられない自分が本当に嫌だったのだ。性格を変えたいと さえ思っていた。嫉妬心から考えてテーマを決めてもよかったかなと思 ったほどである。そのことは誰にも言ったことがなかったのになぜわか るのか先生に尋ねたら、「ずっと見ていればわかる」ということだった 。とにかく、先生に指摘されたことで、これまで私が抱いてきた自己憐 憫や嫉妬心をはっきりと意識することができた。
 私は、今まで他人のことを配慮しているようで自分のことしか考えな い人間であったし、それに気づいて反省し始めた今も、まだそのような 部分は残っていると思う。また、大きな課題である自己憐憫と嫉妬心も 、まだ自分の中に残っているのだと思う。しかしそれに気付けたことが まず第一歩になったと感じている。卒論を執筆するまでは、それに気付 くことすらもできなかったのだ。また、卒論を執筆している段階で、テ クストと向き合いきれなかったこと、本題の「孤独」にたどり着けなか ったこと、またそれにすら気付けなかったことが大きな反省点として挙 げられた。これらを、「では次はこうしよう」という風にすぐに解決策 を打ち出すのではなく、「自分はこれができなかったのだ」と受け止め ることがまず大切だと思う。その上で、これから自分がどうすべきなの かを考えて実行していくことで、少しずつ成長していきたいと思う。

(*1)あさき…コナミデジタルエンタテインメントに所属する日本の作曲家。生年非公開。同社の音楽ゲームに楽曲を提供している 。作詞・作曲を1人で行い、歌唱も楽器演奏もほとんど1人で行う。