第4回発表は、10月23日・24日の2日間で行われた。私も含め、まだ卒論のテーマが決まっていないゼミ生が半数以上いた。 卒論提出まで時間が迫る中、私はとにかく自分でテーマを考え、そしてそのテーマで執筆を進めている状態で発表に臨むこと にした。
私は、大好きで大好きで仕方がないあさき(*1)さんを扱った卒論を書きたいと、ゼミに入った頃から思っていた。私が14歳の
時から最も敬愛している人物であり、彼について卒論を書けたら、なんて幸せなのだろうと思っていた。好きなことを論文に書ける
というのは楽しいこと、幸せなことだと思っていたからだ。第1回目から3回目までのゼミ内発表も、あさきさんを題材にして卒論を
書くことを前提として発表していた。しかし、これまで先生やゼミ生から何回も「彼を客観的に見ることができていないから、彼か
ら離れて考えた方がよい」と言われてきた。けれども、「誰に何と言われようと、私は私の書きたいものを書く」という意識が強す
ぎて、彼から離れて考えることはできなかったように思う。私は「自分は自分、他人は他人」という考え方が強く、自分と他人の意
見をハッキリ分けて考える癖があるので、それも原因の一つのように思う。夏休みに、先生に卒論についての話を聞いてもらった際
には、「どうしてもあさきさんに縛られて考えてしまっているから、あさきさんを扱うのはやめた方がよいと思う」とはっきり言わ
れてしまい、そのときは悔しいながらも、とりあえずあさきさんから無理にでもなるべく離れようと思って卒論のテーマを考えてい
た。
そうして、彼のことは考えないようにして半月ほど卒論のテーマを考えていた。その間には、「自分と他人」でハッキリ分けて考
えてしまうことから、自分の「内と外」について考えたり、自分が昔からギャップがあると言われることから「ギャップ」について
考えたりした。だが、ふとした瞬間に、「やっぱりあさきさんで書きたい」という本音が出てしまった。そのことをゼミで先生に伝
えると、「一周回ってあさきさんにたどりついたなら、あさきさんで書くのも良いのではないか」と言ってもらえた。そのときはう
れしくて仕方なく、「書きたいものが書ける!」と思った。こうして私はあさきさんを題材にして卒論を書くことに決め、テーマを
考え続けた。このときは、あさきさんを題材にして本気で論文を書くつもりだったのである。
しかし、はっきりとしたテーマも決まらず、実際に彼を題材として扱うときに、どう書いていくかということを具体的に考え始め
た。彼の作品を題材として扱うならば、彼の曲を批評的に分析しなくてはならない。そう頭ではわかっていたし、自分はそれをでき
ると思っていたのだが、実際にテーマや目次案を考えて具体的になっていくと、できないと感じたのだ。無粋だからできない、と感
じたのである。音楽や美術などの“芸術”は、何か言葉で説明できないことを作品として表したものだと私は考えている。そのよう
な作品を、冷静に客観的に、言葉で分析していくことが私にはとても無粋に思え、しかもそれが自分にとって大切な作品だというの
だから、耐えられなくなってしまった。今まで先生やゼミの先輩方が言っていた「好きなものを題材にすることの難しさ」をここに
きて初めて実感した。こんなに遅く気付くことになってしまったことがとても悔やまれる。もっと早く気付いていれば、もっと早く
テーマが決まっていたかもしれない。
そして、それに気付くのと時を同じくして、私は私生活で嫌なことが重なっていた。そのときに、あさきさんの曲をヘッドフォン
で聴き、部屋を暗くして引きこもった。嫌な気持ちになったときにこうしてしまうことは、発表でも何回かゼミ生に話してきたこと
である。この状態の自分を観察すると、これは単に嫌なことというよりも、「孤独」によって引き起こされる行動だと気付いた。こ
のときも今までも、思えば私は「寂しい」と強く感じたときに、無意識的にあさきさんの曲を聴いて引きこもってしまうのだった。
私は自分の「孤独」を受け止めてもらうために、あさきさんの音楽に頼っていたのだ。そしてそれに気付くと同時に、高校時代に読
んだ評論のことを思い出した。
それは坂口安吾が書いた『文学のふるさと』というもので、そこには「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」という言葉が書か
れていた。当時この言葉がストンと自分の中に落ちた感覚がして、その言葉を聞いて以来、私はこれまでずっとこの孤独を感じて
いたのだと思うようになった。そして、この孤独をあさきさんの音楽に受け止めてもらっていたのだ。
坂口安吾の語る「孤独」を感じ、無意識的にあさきさんの音楽にその孤独を受け止めてもらっていたのだと気付いたとき、私はあ
さきさんではなく、坂口安吾の語る「孤独」について卒論を書くべきではないかと思った。ずっと「あさきさん以外では卒論を書き
たくない」と思っていた私にとっては、これは新しい一歩だったように思う。あさきさんについて書くことに未練がなかったわけで
はないが、先述したように私は彼を客観視できないこともあり、彼について書くのは諦めることにした。そして私があさきさんや坂
口安吾から影響を受けていたように、文字や文章における「孤独」に触れることが人にどのような影響を与えるのかを明らかにした
いと思ったので、テーマを「文学における『孤独』の影響――坂口安吾を巡る言説」にして、序論を書き進めていった。しかし、私
は発表する前から、題材が「あさき」から「坂口安吾」に入れ替わっただけだと自覚していた。これまで私があさきさんの曲を縋る
対象としてきたように、坂口安吾の言う「孤独」にも縋っているのではないかと思ったからだ。しかし、あさきさんで論文を書こう
としていたときと完全に同じことをしようとしているのではないとも思った。なぜなら、坂口安吾の方がたくさん文献や先行研究も
あるので論文を書きやすく、何よりも私が坂口安吾に盲目的になっていないためである。私はあさきさんを盲目的に愛しているとい
うことがよくわかった。彼を客観視することも不可能だと実感した。しかも、彼を好きな気持ちは自分の中で一番と言って良いほど
大切な気持ちなので、このままずっと盲目的でも良いとすら思っている。なので、もう彼についての論文は書けないと思った。
そして行われた第4回発表では上記のようなことを発表し、新たなテーマと目次案も示した。発表自体は、11分という短さで終
わった。自分でリハーサルしていたときは20分ほどかかったのに、緊張して早口になったせいもあると思う。しかし20分でも短い。
たくさん本を読み、いろいろなことを調べている人は、その分たくさん話すことがあったので発表時間も長かった。長ければ良いと
いうわけではないが、こういうところで努力の差が出るのだと後に先生に言われたし、本当にその通りだとも思った。自分の発表の
短さは自分の努力が足りなかったことが顕著に出ていると強く自覚した。具体的な文献にあたるなどしてこなかったことがその努力
不足のひとつである。
発表後のディスカッションでは、私は<あっこ>に「幼いときに両親が毎日喧嘩をしていたり、自分の言っていることを理解する
人がいなかったことが孤独だと言っていたが、<薫>が感じたその『孤独』が、私にはよくわからない」と言われ、それを考えるこ
とが一番大切なことだと先生からも言われた。正直、<あっこ>の言葉も先生の言葉も、私の頭には響いたが、このときは心には届
いていなかったように思う。私の言う「孤独」を孤独じゃないと思うならそれでも良いが、私にとってこれは孤独なのだ、と思って
いた。
私は昔から本当に頑固で、家族であろうと友達であろうと、他人が何を言っても「それはそれで良いと思う。でも私の意見は違う」
と、完全に「自分と他人」で分けて考えていたし、それが自分の中で当たり前のことだった。私は、自分の考えを他人によって制限
される、つまり否定されるというよりは新たな判断基準が自分の中に入ってくることに、とても抵抗を感じるのである。
また、院生の<まゆゆ>からは「<薫>は他の人の意見を聞かず、完全に自分だけでテーマを決めようとしているように見える。
何を言っても、聞いてもらえない感じがあった。今回も、先生やゼミ生にも了解してもらった上で、あさきさんで書く方向になって
いたが、そうなった瞬間に自分で他のテーマを持ってきているように見える」と言われた。あさきさんで書く方向になったから逆に
自分で他のテーマを持ってきた、いわば天の邪鬼のような状態は全く意識していなかったし、実際そのような理由でテーマを変えた
のではなかったのだが、自分の態度を振り返ると、そう見えても仕方のないことだったのだろうとつくづく感じた。確かに私は他の
人の意見を聞いているようで聞かない。人の意見として尊重はしているつもりなのだが、それを自分の中にまで到達させようとしな
い、つまり「自分は自分、他人は他人」という風に考えてしまうのだ。
前述したように、とにかく他人の考えを自分の中に取り入れたくないという意識が原因なのだと思う。そのような意識が生まれる
のは、他人の考えによって自分の考えが制限されてしまうと感じるからなのだろう。しかし、こうして文章に起こして自分を客観的
に見てみると、一体私は何を言っているのだろうと、思わず失笑してしまう。他人の考えを自分の中に取り入れることは、自分の考
えを制限するのではなく、むしろ広げることだ。こんなことは簡単すぎてわかりきったように思っていたのに、私は全くわかってい
なかったのである。
<あっこ>に言われたことも、そのときは自分の中に沁みてこなかったが、一人でゆっくり考えるとだんだん沁みてきた。私は今
までずっと「私が『孤独』だと感じたらそれは孤独だし、『幸せ』だと感じたらそれは幸せである、たとえ他人には違ってもそれは
関係ない」と思っていた。確かにそう考えると完全に自分だけしかいない世界ができあがって実に心地良いのだが、<あっこ>の言
葉を自分の中で考えるようになってから、「私が感じている『孤独』は本当に『孤独』か?」という疑問が湧いてくるようになった
。なぜこの疑問を持つようになったのかはわからないが、ふと思ったのである。こう思えるようになっただけでも私にとっては大進
歩なのだと、正直感じている。生まれて初めて、自分だけの閉じた世界を疑ったからである。
ディスカッションを終え、先生からは「この坂口安吾のテーマで行って良いと思う」と言われ、「ずっとあさきさんについて書
くと頑固に言っていたが、ここまで待った甲斐があった。そういう意味ではよかった」とも言ってもらえた。しかし「あなたが書く
べきものは『孤独』が与える影響ではなく、坂口安吾の作品における『孤独』であり、それをどれだけ深く読み込めるかが勝負だ」
とも言われた。そのようなわけで、私の卒論の主題は「坂口安吾作品における『孤独』」に決定した。確かに、影響や言説云々より
も、とにかく坂口安吾の作品に描かれている『孤独』を読み解いていった方が、私にとって意味のある卒論になるのだと思う。なぜ
なら、思い込みによって雁字搦めになった自分をほぐすことができると思うからだ。私は卒論を書くことで、自分の「孤独」が本当
に孤独だったのかを今一度自分に問いたい。そして、今まで自分の思い込みに囚われていた自分と決別、言い換えれば別の自分に転
生したいと強く願う。
今は序論を少し手直しして、ひとまず書きあがった状態である。そしてまず、坂口安吾のどの作品を扱うのかを決めなければなら
ない。それと同時並行で、まずは彼や彼の活躍した時代などの、時代背景をまとめていっている。時間の大切さを感じながら、焦ら
ず、しかし危機感は持って執筆していきたいと思う。
(*1)あさき…コナミデジタルエンタテインメントに所属する日本の作曲家。生年非公開。同社の音楽ゲームに楽曲を提供している 。作詞・作曲を1人で行い、歌唱も楽器演奏もほとんど1人で行う。