あっこ
~口頭試問振り返りレポート~

 今回は、第4回発表から口頭試問を終えるまでを振り返ってみたい。
 私は第4回発表では私の卒論の先行研究となるテレビの歴史やピンク・レディー についての書籍からわかる情報などを発表した。詳しくは前回の振りかえりレポートをご覧いただきたい(http://www1.meijigakuin.ac.jp/~hhsemi13/index-egg/egg-works/egg-works-frikaeri/egg-works-frikaeri.html)。その後私は、論文の要となる雑誌や新聞の記事集めに本格的に取り掛かり始めた。私の論文「ピンク・レディーはどのように真似され、語られたか」では、ピンク・レディーの真似がどのようにされていたかを雑誌や新聞の言説を材料に探ることにしていたのである。  まず最初に集めたのは、アイドル雑誌の読者投稿欄に書かれている読者のピンク・レディーに対する投稿である。これは振り付けの真似について語る投稿が見つかるのではないかと考えたことから目を付けた。そうすると実際に振り付けの真似をしているという投稿や、振り付けを真似する人を見たという投稿、みんなで真似しているという投稿などがみられた。また、アイドル誌の記事からも振り付けの真似に関係しそうな言説があるのではないかと思い読んでみたところ、振り付けをコマ送りのようにして覚えることが出来るような振り付け紹介の記事が多数見られた。また振り付けの真似についての記事ではないが、ピンク・レディーの2人の生い立ちや仲の良さについて触れているものが多いことが気になった。この時は気になっていたという程度だったが、後にこれらの事は自身の卒論テーマである振り付けの真似について考察するうえでの材料になっていった。
 ゼミでは後期から、1人1人の卒論への取り組み状況を報告し、先生だけでなくゼミ生同士も互いの状況を把握し合うための時間が設けられていた。記事集めが中盤に差し掛かっていた頃の報告の際、私はこのようにして振り付けの真似にまつわる記事を集めていることや、アイドル誌の記事を読んだときに振り付けの真似に関する言説ではないもののピンク・レディーに対して一貫して語られている言説がいくつかあることを報告した。先生からは、それらも含めたすべての言説を集め、振り付けの真似との関係性を見ていくといいのではないかということをアドバイス頂き、私は人気絶頂期(1976年8月から1979年4月)におけるピンク・レディーの全ての言説を集めることにした。
 それからは毎日のように雑誌専門の図書館である大宅壮一文庫に通い、ひたすらピンク・レディーに関する言説を集めていった。すると400近い記事が集まり、複写するとダンボール1箱が埋まるくらいの量になった。あまりにも多いこれらの記事をどのように論文に生かせばいいのだろうかと途方に暮れたが、ひとまずは発行月ごとにそれらの記事をファイリングしてみた。月ごとにまとめてみると、たった3年弱のピンク・レディーの言説もその年ごとで語られ方が変わるように感じられた。このときは記事を深く読み込んでいなかった為に何がどのように変わるのかは漠然としていたが、デビュー当時はピンク・レディーの紹介記事のようなものや2人へのインタビューなどが多いものの、その後ピンク・レディーを歌謡界や社会の中に位置づけて分析的に語ったり評価したりするような記事もみられるようになることに気付いた。その評価も、時期によって高かったり低かったりするようであった。
 このようなことから、語られる内容の時期ごとでの変化がわかるように時間の流れを追ってピンク・レディーにまつわる言説をまとめていく方がいいだろうということは感じていた。しかし、それを実際にやってみようとしても語られている内容が様々にありすぎて、時間軸を押さえても今度は何の内容からまとめていったらよいのかがわからなくなってしまった。この頃は本当に様々な言説に飲み込まれて混沌としており、自分が振り付けの真似について論文を書くのだということさえ忘れかけていた。
 そんな状態を先生に相談したときに提案していただいたのが「言説マップ」を用いて言説を空間化することであった。これは2本の軸を立てた空間の中に記事を配置し、どのようなことがどれくらい語られているのかを把握できるようにするものである。詳しい作成方法や過程などは、私が書いたブログ「言説空間を把握する」(http://hajime-semi.jugem.jp/?day=20131217)をご覧いただきたい。これを用いることでピンク・レディーに関する言説空間はどのようなものであるか、そして振り付けの真似とそれ以外の言説はどのような関係を持つのかが見えてくるだろうというものであった。とにかくこの混沌とした状態から抜け出したいと思い、私は言説マップの作成に没頭した。そうしてできあがった言説マップを語られている内容ごとで分類していくと、振り付けの真似の近くに配置される言説、そうでない言説などを可視化することが出来、何から書けばよいかわからないという状態からは脱することが出来た。つまり、論文のテーマに沿って、振り付けの真似の近くに配置された言説からまとめていくのが適切であると、言説マップを用いることでわかったのである。
 言説マップが完成したことで論文の道筋のようなものを立てることが出来、ようやく私は本格的に執筆に取り掛かることが出来た。おそらく時期はもう11月に入っており、ひと通り考察以外を書き終えて提出することが出来るようにと言われていたゼミ内提出の12月25日まであと、2カ月を切っている状態だった。時間が限られている為きちんと書ききれるかどうか不安が大きかったが、振りかえってみればそのような不安は却って私のモチベーションにつながっていたと思う。私は勉強などでも時間があると思うとどうしてもだらけてしまうマイペースな性格である。しかし今回は時間がないことを重々承知していた為、論文執筆は手を止めてはいけないと思い常に必死で朝から晩まで書いていた。
 なんとかゼミ内提出までにまとめや考察以外のひと通りの論文を書き終えることが出来たが、この時点でかなりモヤモヤした気持ちがあった。結局、振り付けの真似とはどのようなものなのかという論文の問いに対する答えが、自分の中で導き出せていなかったからである。ピンク・レディーに関する言説を集め、あれやこれやと思考を巡らせたものの、はっきりとした結論を論文において根拠付けて示すことが出来なかった。その為、結局この論文では一体何を明らかに出来たのだろうかとモヤモヤしていたのである。
 そうはいっても何か結論のようなものを示さなくてはと思い、私はゼミ内提出後に書いた考察の中で、当時すでに日常のメディアになっていたテレビを通じてピンク・レディー及びその振り付けが視覚的に広まったことや、ピンク・レディーに関する様々な言説や振り付け、衣装などがピンク・レディーを“憧れのスター”として存在させていたことが論文を通してわかり、その事から人々は身近なテレビを通して見た憧れのピンク・レディーになりきる為に振り付けの真似を行っていたのではないかというような結論を書いた。しかし、このような結論は私の主観も含む根拠の薄いこじつけのようなものであり、また振りつけの真似とは何かという根本は明らかに出来ていないことは十分わかっていた。その為、なんとなく煮え切らない気持ちのまま1月8日に論文を提出するに至った。

 論文を提出してからは1月24日に予定されていた口頭試問に向けた準備を進めていった。
 口頭試問では、1人わずか10分の持ち時間の中で論文を読んでいない人にもわかるように自分の論文の内容を伝えなければならない。自分も含めて皆、論文の内容の要点を掴んで10分以内に説明を収めることに苦労していた。当日すらすらと発表できるように事前に原稿を準備することにしたが、原稿にしてみるとなんだか薄っぺらいことしか書くことが出来なかった。やはり、結局何が明らかになったのかがはっきりしていないのである。別にこんなに薄っぺらい結論ならば、たくさんの言説を調べなくとも導き出せたのではないだろうかと思うと落ち込んでしまった。しかしこれがある意味自分の論文の要約なのだから、そう受け止めなければならないと感じた。皆で原稿の読み合わせをしながら、一体どのような評価をもらうのだろうかと聞きたいような聞きたくないような複雑な気持ちでいた。
 口頭試問当日も皆で読み合わせをし、とうとう発表を迎えた。ここまで来ると逆に気持ちはとても落ち着いていた。もう論文は出してしまったのだし、評価も決まっているのである。今更何をもがいても結果は変わらないのだから、落ち着いて受け止める心の準備だけをしていようと思った。原稿も落ち着いて読むことが出来たと思うが、読みながら先生からの質問に上手く答えられなかったらどうしようという不安は巡っていた。
 先生からの第一声は、この論文を書いてみてどうだったかという質問であった。私は上記に書いたようなモヤモヤした気持ちが残っていることを素直に話した。こんなに調べても、明らかに出来たことは少なかったという悔しさである。また発表においても不足点や反省点として、学術的な勉強が不足していたこと、そのために論文を学術的な結論に持っていくことは出来なかったことを述べていた。先生からは、私が不足点として挙げたことは的を得ており、そのような理論的なフレームがなかった為に、たくさん調べているのに結局真似とは何なのかという部分が明らかに出来ていないことを指摘された。そして同時に、それは卒業論文で扱うにはとても難しいことであるということも教えていただいた。私は何故学術的なことに結び付けることが出来なかったのかと論文提出後もモヤモヤして過ごしていたが、そもそもその理論的なフレームを手に入れるのは短期間で出来る容易なことではなく、そこで今モヤモヤしても仕方ないのかもしれないとこの時感じた。
 しかし同時にもっと出来ることがあったはずだし、それをしなかったことも感じていた。私はテーマが決定した夏合宿開けから、模倣について学ぶ為にガブリエル・タルド著の『模倣の法則』(河出書房出版、2007年)を読むことにしていた。しかし、読んでいてもなんのことを言っているのかほとんど理解出来ず、途中でこの本を読むことを放棄してしまった。それではいけないと思い、最終的に彼の主張をもう少し噛み砕いてわかりやすく書いている池田祥英著の『タルド社会学への招待―模倣・犯罪・メディア』(早稲田社会学ブックレット、2009年)の模倣についての個所を読むことにしたが、これを読んだことでなんとなく模倣について理解をした気になってしまい、その後もタルド自身の著書に戻ることはなかった。本来ならば、『タルド社会学への招待―模倣・犯罪・メディア』を読んで理解を深めたうえで、改めて模倣を研究する第一人者であったタルド自身の主張を読み説くべきだったが、時間が限られていることを言い訳にそれに取り組むことをしなかったのである。結果として、私は考察において模倣の学術的な視点からピンク・レディーの振り付けの真似について語ることが一切出来なかった。やはり私はタルドの主張を理解した気になっただけで、まったく何もわかっていなかったのである。わかっていないことを論文に反映しようとしても無理なことで、私は考察を書きながら模倣について何も理解出来ていなかったことを痛感し、学術的な視点から考察することを諦めた。だからこそ、理論的フレームのない論文になっていることもわかっていた。
 そのような指摘をされたものの、評価された部分もあった。それは言説マップを用いて言説をきちんと整理できているという点であった。私は言説マップにかなりの時間を割いており、取り組んでいる間は途方に暮れたし執筆時間がそれによって押されることを懸念していた。しかし、それでも言説マップを作ったからこそ言説をテーマに沿って整理することが出来たのだと思うと、作って本当によかったと思った。これがなかったら、私の論文は混沌としたまままったく筋の通らないものになっていたかもしれない。まとめた言説を用いての考察が満足に出来なかったことは悔やまれるが、こうして言説の様相を整理することそのものも、この論文においては重要だったのだと考えると、それが出来たことに対しては自分でも評価したいと思った。
 先生からはこの論文はまだまだ発展の余地があると言って頂いた。それは自分でも感じていることで、集めた資料を理論的なフレームを用いて見ればもっともっといろんなことが明らかに出来たのかもしれないと思うし、それが出来なかったから悔しさが残っているのである。今の論文の状態は、しっかり言説をまとめたのにも関わらず、そこから明らかに出来るであろうことを充分に明らかに出来ていない、非常にもったいない状態だと思う。
 正直今は論文がひとまず形になった解放感からか、燃え尽きてしまったのか、自分の論文をあまり読み直す気にはなれない。しかし同時にこのもったいないままで終わらせたくはないとは思っている。先生に言われた通り、理論的なフレームを養うのは簡単なことではないし、「真似」とは芸術におけるとてもコアなものであることも教えていただいた。先生のおっしゃった真似と芸術との関係を自分の言葉で解釈出来るほどの力は今の自分にはない。しかし、模倣について学ぶ中で「真似」とは実は「発明」と表裏一体であり、何もないところから新たなものを生み出すのは難しい為、人びとは既存のものを真似する中で新たなものを発明してきたということを学んだ。模倣のこのような発明に近い性質が、芸術のコアな部分にも関係しているのではないかと今のところは考えている。
 この論文において真似とは結局何なのかを考えられていないことは、今後の大きな課題である。その為、本を読んで、時間がかかってもいつかは理論的なフレームを持ち合わせてこの論文を見直してみたいと思う。その時に今の自分よりも様々なことが自分の論文からわかるようになったら、その時にこのモヤモヤや悔しさが少し取り除けるのではないかと思うし、こうして悔しさを感じたことを懐かしむのかもしれない。