あっこ
~第4回発表振り返りレポート~
 10月23・24日に行った第4回ゼミ内発表で、私は『家族概念の形成』というテーマ兼タイトル案を据えて、卒論を書くことで明らかにしたいこと、題材候補、調査方法、家族社会学について調べてきたこと、そしてこの第4回ゼミ内発表の直前、10月16日に行った卒論経過報告からこのタイトル案に至るまで考えてきたことを発表した。 この発表で私が忘れられないのは、ディスカッションの際に、私の発表に対して先生からもらった「考えていない」という言葉だ。まずは発表に至るまでを振り返り、私が考えたテーマについての説明をしようと思う。そしてこの第4回ゼミ内発表を終えて、先生の言葉をもとに振り返りたいと思う。



 私は8月4日から2泊3日でおこなった夏合宿の時におこなった第3回ゼミ内発表にて、親の離婚という経験をテーマとして扱いたいことを発表した。しかし、今回の発表に至るまでの間、親の離婚という経験を扱おうか迷った時期があった。
 自分の経験から抜け出せない状況にいた私をみたゼミ生たちから、他のことを考えてみてもいいのでは、というアドバイスをもらい、第1回ゼミ内発表で扱った服・ファッション雑誌のことを考え直してみた。しかしその後、ゼミ生から、先生から離婚のことをやればいいのでは、というアドバイスももらい、そのアドバイスを受けてその方向で進んでいこうと思った。その結果離婚を出発点において、そこから考えたことの中から疑問をみつけ、卒論を書いていくことが定まった。このとき、ゼミ生・先生から離婚のことでやればいいのでは、とアドバイスをもたったとき、今の現状で離婚以外のことを今更考え始めてもしょうがない、というまっとうな考えから声をかけてくれたと思うのだが、今まで自分が離婚に関して考え聞いてもらった話が、少しはテーマにつながってきているのだと確信してもいいよと言われているような気もして、それが本当に嬉しかった。
 しかし、離婚というものを具体的にテーマや題材として扱おうとすると、どうしたらいいのか、わからなかった。さらに、私はほとんど文献を読んでおらず、秋学期のゼミが開始してからおこなった授業内卒論経過報告にて、文献を当たることが私の課題だと認識したため、私と同じように家族を大きなテーマとして扱おうとしていた<くぼっち>が読んでいた家族社会学のジャンルから本を選び、読み始めた。
 最初読もうと思った本は『概念としての家族―家族社会学のニッチと構築主義』(木戸功、新泉社、2010)、『家族社会学を学ぶ人のために』(井上眞理子、世界思想社、2010)、『論点ハンドブック 家族社会学』(野々山久也、世界思想社、2009)、『離婚の社会学―アメリカ家族の研究を軸として』(野々山久也、日本評論社、1985)、そして『家族社会学のパラダイム』(目黒依子、勁草書房、2007)である。文献の中から離婚に関するものを探しては読むことを繰り返す中で、離婚に関する問いを探していこうとしていた。
 そうして迎えた第4回ゼミ内発表では、そのように文献を読んでは自分の経験に立ち返って、問いを考えてきたことを発表した。
 簡単に立ち返った内容を述べると、(詳しくは<あっこ>のブログ『繰り返し考える』をご覧ください)私は『家族社会学のパラダイム』(目黒依子、勁草書房、2007)で述べられている「家族の個人化モデル」を踏まえて自分自身の経験を振り返っていた。
 「家族の個人化モデル」とは、「片親化の進行、共食・協業の減少を指すラベル」つまり、片親家庭の増加数、ある集団に属する人々が共に飲食をしたり共同の作業をすることが減ってきていることで、家族の構成員が親戚・地域の人と人とのつながり、または家族の構成員自体をつなぐ絆というものが軽薄になっていく過程を指しているのではない。社会の単位として数えられる近代家族が戦後からの成立基盤を失う変化過程の方向を示す分析概念である。そしてその成立基盤とは、戦前の2代以上の、現代の言い方で言えば核家族が一緒に暮らす直系家族から、戦後民法改正によって、家族の集団性、両性の両親性(ジェンダー役割)、そして両親の永続性という前提が築きあげられていった過程を指している。
 そのことから考えたのは、私自身の親の離婚からその後の経験は、「家族の個人化モデル」が分析対象とする近代家族の変化過程、つまり核家族の形態をとる家族と、核家族の形態をとらない家族の数において、後者が前者を上回ってきている状況における経験の一端だったのではないか、ということである。
 このような近代家族の変化過程の一端を経験した、と感じる理由には、以下の3点が関係しているように思っていた。1点目は、私自身が、親が離婚してから、次第に両親が父・母という前に一人ひとりの男女であるという認識を持つようになったこと、2点目は、母を通じて既婚者である女性が多く働いていることを知って近代家族が持つジェンダー役割の存在を感じるようになり違和感を覚えたこと、そして3点目は、必ずしも家族という形が「両親とその子ども」という核家族の構成を守ったものばかりではないと感じてきたこと、である。
 こうして自分の経験を踏まえると、私は「自分の経験と近く、より自分の主張に説得力を持たせてくれるもの」という理由で目黒依子氏の研究を先行研究として扱おうと思った。そして近代家族の前提が崩れ、家族は個人によって選ばれる生活の仕方の1つとなっていく中で、それでも家族という集団へ所属しようとするのはなぜか、という問いへたどり着いた。なぜ個人によって選ばれる仕方へ移っていくのかというと、家族が父・母・その子どもで構成される核家族の形態をとった家族が数として少なくなってきているためである。つまり、「家族は個人によって選ばれる生活の1つ」とは、核家族の構成員1人1人の意志がバラバラになっていく、ということではなく、核家族の形態をとる家族と、核家族の形態をとらない家族の数において、後者が前者を上回ってきている状況から導かれたものである。
 しかし、確かに『家族社会学のパラダイム』に書いてある状況、近代家族の前提が崩れ、家族は個人によって選ばれる生活の1つとなっていく状況、が私自身も経験してきたことだったため、「一端を経験してきたのかもしれない」と考えたのだが、そう思うのはただ単に本に共感しているだけなのではないか、とも感じていた。この時私が言っていた「自分の経験と近く、より自分の主張に説得力を持たせてくれるもの=先行研究」というのは、ある種の後ろ盾のようなものだったようにも思った。そして最終的に現在の自分の家族を『家族社会学のパラダイム』で指摘されている多様性のある家族形態の1つとして捉えなおしたとしても、私が持っている親が離婚する以前の家族の状態を「理想としてしまう考え」はなくならない、という考えに注目した。
 その考えから「『家族の理想像』とはどういうものなのか」という問いを立てたが、理想像は人それぞれであり、論文にはふさわしくない問いであることに気付いた。自分が考えていく点は、ある「概念」が理想像か否か、ということではなく、どのように家族の「概念」が語られているのか、ということではないかと考え、『家族概念の形成』というタイトル案に至ったのだった。ここで私が言っている「概念」というのは、「イメージ」と同じような意味で了解し、用いていた。



 私は離婚をどのように扱えばいいのかわからない状況からやっと抜け出せたように感じていた。つまり本を読んで考えて問いをみつける、ということを第4回ゼミ内発表の前にやってきたように思っていた。しかし、そのように考えていた私に先生が言った言葉が「自分で考えてない」という言葉だった。
 また、先生は「本が言っていることはそれとして、問いは自分で考えてみつけるものではないのか」とも言っていた。私はこれまでしてきたことは、自力で問いを見つけ出そうとしていなかったことだったのだと知った。そして私は自分でテーマを決めることができず、先生に決めていただいた。ずっと必ず自分でテーマを決めようと思ってきたことが、この期に及んで、自分で考えなかったことが原因で果たせなかったのだと思っていた。
 けれども、発表が終わった時はまだ自分がさらに重要なことを忘れていることに気付いていなかった。
 24日の発表2日目に行う発表が終わり、第4回ゼミ内発表自体の振り返りをゼミ生たちのみで行った。そして振り返り後は先生と合流をして、先生からの総評を聞くのだが、その中で、先生が多分「なんのために卒論を書くのか」ということについて話していたと思うのだが、私はその話を聞いていて、自分がなんで卒論を書くのかを忘れていたことを思い出していた。
 私は勝手に、卒論を書くことを自分が家族に対して向き合うことのように捉えてきた。自分の経験である親の離婚を論文の大きなテーマとして扱うことによって、家族の一員である自分も含めて家族に向き合うことができるようになると思ったからだ。それは親の離婚を大きなテーマとして据えようとしてきた第3回ゼミ内発表の準備をしているときから、なんとなく思っていた。自分に起きた親の離婚というものを受け入れることができないために、新たな視点から離婚という出来事を捉え直したかったわけではなく、ずっとどこかで悩み、葛藤しながら考えてきたことだったからこそ、考えることの集大成というような論文という形で、離婚を取り上げたいと思っていたのだった。
 けれども、結局は離婚に本の内容で意味づけをして扱おうとしていて、自分では何も離婚について考えようとしてきていなかった。離婚をうまく論文で扱えるものにするにはどうすればいいか、ということしか考えてきておらず、自分が離婚に対して抱く関心についてどのような問いを立てることができるか、考えていなかったうえに、自分が卒論を書くことでどうしたいか、という根本的なことまで忘れてきたのだった。そうなった今、今まで、テーマ決定のために考えてきた様々なことがつながらなくなってしまうような気がして、自分でテーマを決めることができなかったことは自分にとって特に重大なこととして忘れないだろうという気持ちになる。けれども、その度に、決まったテーマを必ず自分のものにしようとも思う。暫定的ではあるが、私のテーマは『『家族ゲーム』にみる「家族」イメージ』となった。このテーマに用いる言葉についても私は先生から指摘を受けた。当初提示していた『家族概念の形成』の中の「概念」という言葉の意味をわかっていないのに使っている、ということだ。私は概念、という言葉を用いているのに、指摘を受けたとき、意味を答えられなかった。このことから、卒論では一つ一つの言葉の意味をちゃんと考えて適切な言葉を探し選ぶこと、そして自分の身の丈に合った言葉で述べている文章を書くこと、を意識していこうと思う。



 今回の発表では、10月16日の経過報告によって先生から指示をもらった課題である、いくつかの題材の候補も挙げていて、その候補の中から題材が決まった。私の卒論の方向性は、本間洋平氏の小説が原作である『家族ゲーム』の映画版、6つのテレビドラマ版の作品を題材として、その作品に描かれている家族イメージをみつけ、作品によってどうイメージが違っているのかをみていくことに決まった。
 そしてテーマ、題材が決定した今、直近まで触れてきた家族社会学を、論文に活かすことができないか考えていると、家族社会学というジャンルは、家族という実態がなかなか掴めないものを対象としている学問だからこそ、そのゆえに細緻なデータを必要とする主張が台頭してきてしまうものなのかもしれないと思った。私が読んでいた『家族社会学のパラダイム』はまさにその主張を第一としている研究であり、本には家庭の数や結婚年齢、親族の数など、様々なデータが並んでいる。たしかに、データとは研究を裏付ける大切なものかもしれないが、データを大黒柱にして家族の現象を考察していくことは、私たちが学ぼうとしているメディア論とはまた少し違うのかもしれないとも思っている。メディア論でも、家族を対象にできると思うが、私たち一人一人の生身の人間がいる現場をデータとして検証するよりも、生身の人間とその環境とのかかわりに重きを置いて、研究しようとする現象を考察していくのがメディア論、だと考えた時、同じ掴みどころのない対象である家族でも、全く研究の方向性が違っていくのではないかと思った。
 メディア論を学ぼうとしている者として、そして分からないなりにも、おもしろそうと思ってきた学問であるからこそ、そのメディア論を視座においた自分なりの考えを卒論で述べたいと思う。