あっこ
~第1回、第2回発表振り返りレポート~

 私は第1回発表で「服とファッション雑誌に対する自分の意識や対応について」を発表し、第2回発表では 「神奈川県立鎌倉高等学校に対して抱いてきた疑問について」を発表した。そして私は、この第1回発表を終えてから、 第2回発表が行われるまでの間、「自分の中に【好きなもの】が無い」という考えを前提にして発表又はテーマ・卒論を 考えていた。なぜその時の私は、そう考えていたかというと、第1回発表の以前から、「周りのゼミ生は明確な関心の対象 【好きなもの】を持っている」と感じていたからだった。つまり、私はテーマ・卒論を考えるためには「自分の好きなもの」 から思考を出発させなければならない、というふうにいつのまにか思いこんでしまっていて、第2回発表を終えた今に至るまで、 その思い込みに縛られていた。

 そう考えると、長谷川先生から第2回発表の際の個人講評で指摘された「考えているつもりかもしれないが、 これは考えていない」という言葉の意味がなんとなくだが、その言葉を受けた時よりはわかったような気がしている。 私はいつのまにか「好きなものから考えなくてはいけない」と思いこみ、最も考えていくべき「なぜ卒論を書くのか」 ということから既に、ものすごく遠ざかっていたのかもしれない。その思い込みがあったため、先生から「考えていない」 という言葉を受けても、「考えたのに、考えていないということはどういうことだろう」と思っていた。けれども発表を 振り返ると、私が「考えていたつもりになっていた」ことがよくわかる点がある。

 私は第2回発表の際、「なぜ卒論を書くのか」という言葉を持ち出し、その問いに対し「自分の最も疑問に 感じていることを明かしたいから」と述べている。もちろん、私なりに第2回発表を迎える間、その問いに対する 返答を持つことが必要だと実感した上で、出てきた説明だった。しかし、思い込みで考えたこの返答は、「考えた つもり」だったもので、自分の中から出てきた言葉で考えたものでは無かったのだと思う。この考えに至ることで、 先生の「考えたつもりで、考えていない」という意味がなんとなく分かってきた気がしている。

 第2回発表を終え、先生がおっしゃっていた「考えていない」ということがどういうことか考え始めた今、 第2回で発表した「神奈川県立鎌倉高等学校に対して抱いてきた疑問について」も、考えていなかった状態で出て きたものだと思う。そう思うと、本当に自分が卒論で書くべきことではないのかもしれないと思っている。そう思うと、 自分の中に書くべき題材などもう残っていないような気がしていた。けれども、第2回発表の打ち上げで話を聞いて くださった<かわしま>先輩は「書くべき題材はまだまだたくさんある」とおっしゃって下さった。そして、題材を 見つけるためには「もっと自分のかっこ悪いところを出していけばいい」ともおっしゃっていた。私は「ゼミ生と もっと沢山話し合っていけば、題材が見つかるのかもしれない」と思った一方、「本当にみつかるのだろうか」とい う不安も拭いきれていなかった。そう不安に感じているのは、「自分自身がなぜ卒論を書くのか」という根本的な理由 を見つけていないからだと思う。そして、この根本的な理由を見つけていくことが、題材を見つけるよりも今の自分に とって最も重要な課題だとも思っている。確信を持ってそう言えるのは、先日行った、テクスト『アトラクションの日常』 の講読の発表(自分が担当したものとしては2回目の講読発表)をした時のことが深く関わっている。

 まずそのときの講読発表がどのようなものだったかというと、講読発表自体のレベルは何回かやり直して発表した1回目の 講読発表から全く変わっていなかった。内容については、「ひとつひとつの文をきちんと理解出来ていないので、読んでいる 内容がぼんやりとしか見えておらず把握できていない」というものだった。これは先生が指摘して下さったのだが、この私の 「癖」は、すでに1回目の講読発表から滲み出ていたものだった。

 読み方の改善策として、先生から「ひとつひとつの文の構造を理解することだけすればいい。ほかの文とのつながりは 置いといていい」とアドバイスを頂いたこの改善策は、以下に述べているが、今の自分にとっても、大切なことだった。

 先生は前のことにつづいて「講読や卒論に関わらず、目の前のことを理解していかないと、いつまでたっても全体がぼんやりと、 茫漠としか見えないままで、自分が何をやりたいのかがわからない」ともおっしゃっていた。私は「自分に足りないのはまさにそれだ」 と、なんとなくかもしれないが、先生の言葉を聞きながら思っていた。だからこそ、卒論において、【「自分自身がなぜ卒論を書くのか」 という根本的な理由を、見つけられるのか】つまり「卒論を書くことで自分が何をやりたいのかが分からず、漠然としてしまっている」 という不安がある。けれども、私に出来ることは、講読の読み方の改善策として先生がおっしゃっていた「文ひとつひとつの構造を 英文読解のように理解していくこと。そしてとにかく本を読むことしかない」というように、卒論においても、「なぜ卒論を書くのか」 を考え、ゼミ生と互いに話すことを、ただひたすらに実践していくだけで、それしかないと思っている。

 また、「自分ができていなかったことを知ることに落ち込むのではなく、見つけることができたというように捉えればいい。 そして、なぜできていなかったのかを考えていくことが大切。」と先生がおっしゃっていたことも、「講読や卒論に関わらず」すべてに おいて通ずることだと思う。「全体」を見てしまうのは、なぜなのか。わたしは講読に限らず、普段の生活でも「全体を見ること」 つまり「自分の周囲の人間関係」が好ましいことだと思い、なるべくそうしようとしてきた。つまり「全体を見ること」が「当然」で、 その状況の判断をした上で行動や判断をしてきたからだった。しかし茫漠としか見えていないことがわかった今、周囲から聞く「私」 の「いいところ」「悪いところ」から「少しは見えているだろう」という実感があって見てきた“全体”は何だったのか。なぜ自分は 「全体を見ること」を「好ましい」こととして捉えてきたのか。そこには思い込みがあるのかもしれないが、自分はどんな思い込みを 持っているのだろうか。つらつらと書いたが、今はそのような疑問しか浮かんでおらず、気づく時があるのだとしたら果てしなく遠い気 がしている。だが、とりあえず講読の仕方における悪いところの改善策はわかったのだから、難しいことはなく、とにかくその手立てを 自分自身が実践するだけだ。

 また、第2回発表で私たちは「とりあえず今の段階で、自分なりの目次案を作ってみる」という課題を先生から頂いていたので各々が 初めて目次案を作ってきた。そのこともあって、<かわしま>先輩は「目次案はそう簡単に言葉にできない」といったこともおっしゃっていた。 「目次案は簡単に言葉に出来ない、簡単につくれないものだ」ということをおっしゃったのだと思う。けれども、先輩の言葉も、 決して目次案だけに通ずる話だけではないと思わされるような、印象深いものだった。話を聞いて、卒論は簡単には言葉にできないものを言葉に していく作業なのかもしれない、と私は思った。だとすると、自分の中の言葉にうまく表せないものを見つけ出して、初めてテーマを 見つけ出す準備が整った、と言えるのかもしれない。さきほども言ったが、これもとにかく考え話すことを実践していくことしかない。

 私たちゼミ生がテーマ決定を目指している夏合宿まで、もう残り1ヶ月ほどである。AチームとBチームに別れて活動することになった今、 時間を取り戻す勢いで自分たちの卒論・テーマについて話し合わなければいけないと思う。けれども、卒論が「簡単に言葉に出来ないものを、 言葉にしていく作業である」という自分なりの考えが浮かんだことと、講読で先生がおっしゃっていたように「難しいことはなく、ただ実践して いくだけ」ということがわかったことで、「今の自分ができること」に向かっていく身構えができたような気がして、ほっとしている面もある。 時間が無い中ほっとしている場合ではないかもしれないが、とにかくやるしかないので、この振り返りで考え感じたことを忘れずにやっていきたいと思う。