Calender: October,November



◆概要
 卒論の執筆が本格的に始まり、資料集めや文献調査を進めながら、序論や本文を書き始めた。11月には二回目の中間発表が行われ、執筆の最終的な方向性を定めた。




◆ショートカット
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▼ゼミ長:<しおりん>

 夏合宿で構造分析という方向性を掴んだが、それを行うにあたっては理論が必要となるため、ロラン・バルトの『物語の構造分析』(※1)をその理論として使用することにした。まず同書を読み、概要をまとめエッセンスを抽出したレジュメを作成した。このときは、バルトの理論を「セーラームーン」にどう適用させていいかがわからず、特にバルトの理論を理解しようと必死に何度も繰り返し本を読んだ。
 バルトの本を読むと同時に、中間発表に向けて私が考えていかなければならなかったのは、「セーラームーン」のどのシーンを分析するか、また何について論じるかということだった。シーンの選択については、先生から自分が気になっているシーンを選ぶのがよいとアドバイスを受けたので、自分が最も好きな第158話と第149話を選び、何が描かれているかを詳しく見るため該当するシーンの絵コンテを作成し、バルトの理論に沿って分析を進めていった。
 分析するにあたって、「セーラームーン」関連の本を数冊読んだが、いくつかの本の内容に引っ張られ、執筆の手が止まってしまうことも何度かあった。特に「セーラームーン」の話の内容のレベルに留まってしまい、登場するキャラクターを物語の「参与者」(※2)としてうまく抽象化することができず、そこからなかなか抜け出すことができないということが続いた。またこの時、必要なことを自分で考え取り組んでいく姿勢を見失っていたことに気がつき、「シンデレラ」や「美女と野獣」などの昔話に関する文献や実際に構造分析をしている文献を探し、自分から積極的に動いていくことを心がけた。
 何度も本を読み返し理解しようとしていくなかで、バルトの理論と絡めて書くことができそうだと思ったのが、第一回のテーマ発表でも取り上げた「王子様」という題材だった。「王子様」とは「シンデレラ」に登場するような王の息子としての王子ではなく、イメージとしての「王子様」だ。私が選んだ話の中にも「王子様」的なキャラクターが登場すること、また分析をしていくうちに私自身が「王子様」にかかわるパターンに強く惹かれているということに気が付いた。中間発表ではこの「王子様」という題材で論文を進めていくという方向性を定めた。またこのとき、ゼミ全体として執筆が進んでおらず遅れているという指摘を受け、序論の修正をはじめ、「セーラームーン」という作品の概要についてなど、この時点で書けるところの執筆を進めていった。【目次案2】  またテーマを「王子様」と決定してからは、「王子様」のイメージについて、どのようなものが「王子様」とよばれているのか、自分が抱いていた「王子様」像について執筆していった。

※1 ロラン・バルト『物語の構造分析』(1979) 花輪光訳、みすず書房
※2 前掲書 p.9〜10

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▼副ゼミ長:<ジェット>

 夏合宿でテーマがおおよそ固まったことで、10月からは本格的にゼミ生各自が執筆のための取り組みを開始することになった。テーマ決定はもちろん簡単な作業ではないが、それが済んだからといって論文が書きあがるわけではなく、執筆の本番はここからである。にもかかわらず、私は前述した思考停止状態のままになってしまっていて、夏合宿で掲げた目標である「青春」に関連した作品のリストづくりや、作品の視聴をほとんど進められないままでいた。
 この頃はリストづくりの段階で右往左往してしまい、取り組んでいるつもりでも実際には考えが足踏みをしたままで、行動に結びつけることができないまま過ごしていた。リストに載せる作品を選ぶにあたって「青春」に関連するもの、ということを念頭に置いた際に、「青春」とは何なのだろうかということをぐるぐると考え続けてしまい、本来作品を通して考察するはずの「青春」に 対して、自分の頭の中から答えを見つけようとしていたからだ。
 結果的に11月の半ばで行った後期中間発表では、中間発表までに行ってきたことも、これからやるべきことも満足に発表することができず、このままでは卒業論文を書ききることさえ難しいという有様だった【目次案2】
 結局、私は自分で自身の論文の最終的なテーマを決めきることはできず、先生やゼミ生からやるべきことを教えていただいてその後卒論に取り組むこととなった。このことはすべて自分が招いた苦い結果であり、同時に何を言い訳にしたとしても、前進するためには何よりも自分自身で具体的に行動を起こす必要がある、ということを身をもって知る経験ともなった。
 中間発表で『おれは男だ!』というTVドラマを論文の題材にすることが決まり、その後ゼミ生みんなの協力によって今後の詳細なスケジュールを組むことができたため、それからは2日間で執筆の対象とした1話から24話を視聴したり、当時の作品の受け入れられかたをどうすれば調べられるかを考えたりと、めまぐるしく毎日を過ごしていた。進捗状況は芳しくなかったためやるべきことはたくさんあったけれど、何かをしているという実感は何も考えていない状態よりも遥かに充実していて、不安も少なかった。
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▼web長:<ワコー>

 夏休みから取り組んでいた映像編集作業は、10月にようやく終わり、ゼミ生、先生からも好評をいただいた。HPが公開されたのは11月になったが、3年生にもようやく自分たちの作ったショートムービーを届けることができた。ある3年生は、ショートムービーを見て感動し、涙が出たと言ってくれ、それを聞いたときには感無量であった。
 HP作りもさることながら、卒論への取り組みもいよいよ本格的になってきた。10月は資料集めと、執筆可能な部分を書き始めるという作業にうつった。夏休みからがむしゃらに資料集めをしていた私も、少しずつ本論を書き出していった。
 自分の中では、ここまでの取り組みは順調なように感じていた。手元には資料も沢山あり、知識もかなりついてきたという自覚はあった。しかし、それが結果的に方向性を見失うということにつながってしまった。健康麻雀関連の資料を大量に集めたはいいが、そこに書かれている内容から「金銭を賭けない反賭博麻雀の善さ」という部分だけを抜き出し、自分が健康麻雀について論じていくうえで都合の良い理解の仕方をしていた。それゆえ目次案を立てても、まるで金銭を賭ける賭博麻雀を批判し、反賭博である健康麻雀を推進する人間のレポートのようなものにしかならなかった。11月の中間発表でそのことを指摘されるまで、自分では気づくことができなかった。【目次案2】
 まず資料集めの時に、健康麻雀関連のものばかり集めていたことが一つの原因であった。健康麻雀関連の資料を見ると、活動の活発さ、その素晴らしさばかりが並んでいる。そうした資料ばかり集めていたため、健康麻雀の良いイメージにばかり囚われてしまい、そうしたイメージを打ち出しているのはなぜなのか、そこから分かることは何なのかということを考えることができず、自然と思考が健康麻雀寄りへとシフトしていってしまっていた。また、賭博麻雀と健康麻雀を、金銭を賭けるか賭けないかという観点でのみ考えており、両者を別次元のものとして捉えていた。そのため、賭博は悪、反賭博は善という、至極単純な構図が自分の中にできてしまっていた。
 中間発表後、まずはその構図を考え直すことを指摘され、賭博と反賭博は、両者がその存在を成り立たせあっているということに気付いた。賭博麻雀というものがあったから、そのアンチテーゼとなる反賭博麻雀が生まれたのであり、両者は同じ賭博というフィールドの中に成り立っているのだということを認識した。
 この指摘から、自分が論じたいのは反賭博麻雀の良さではなくて、反賭博麻雀の本当の正体なのだということを見定め、最終的な方向性が決まった。今まで健康麻雀にばかり偏っていた資料集めも、賭博についてのものにも重点的にあたり、賭博麻雀がテーマとなっている小説『麻雀放浪記』(※1)を読み、そこに描かれる博徒たちの様子から賭博麻雀の様相を探ったりした。偏ってしまった思考を平行に戻すため、今までは都合良く解釈していた健康麻雀関連の資料も、できるだけ批判的な目線で見るようにした。
 すると、指摘されていた賭博と反賭博の関係性を少しずつ事実から論じられるようになり、その状態を保ち続けたまま執筆を行なっていった。

※1 麻雀放浪記は、阿佐田哲也の小説作品。青春編、風雲編、激闘編、番外編の4つの編によって構成されている。

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▼副web長:<けーたん>

 この時期は一番辛かった時期であり、このようになってしまったのは私自身に問題があった。夏休みの間にやるべき作業を放置していたからだ。やるべき作業というのは、自分がゆるキャラだと思うキャラクターの写真を1枚でも多く写真におさめ、集めることだった。分からなくても良いからとにかくゆるキャラだと思ったものを集めようと決めたにも関わらず、この作業をさぼってしまった。この作業を怠っていたことで、「たくさんキャラクターがいて、私にとってはそれがゆるキャラと感じることが出来るが、本当にそれはゆるキャラでいいのか、ゆるキャラが何か分からない」と怖気づいてしまってから、ゆるキャラが分からない状態から抜けることが出来ず、結果として夏合宿後の状態から一歩踏み出すことができなかった。
 そして、ゆるキャラという言葉を提唱し広めたみうらじゅんの定義に日に日に引っ張られ、なにがどうしたらゆるキャラと言われるものなのか、ゆるキャラの何が知りたいのか、ということがどんどん分からなくなってきた。
 この時期は毎週、ゼミ生が私のために多くの時間を割いて話しを聞きアドバイスをしてくれた。それに応えたくて、分からなくてもいいから集めるということをしなかった自分が情けなくて悔しかった。考えても考えても、ゆるキャラがなにかも良く分からないのにゆるキャラをうまく対象化することが出来ず、べったりと張り付いてしまい、なかなか切実なものが自分自身でも見えなかった。
 これ以上ゆるキャラをテーマにして深めていくことが出来ず、ゆるキャラを考えるためには、ゆるキャラではなく違う題材が必要になった。そこで多大なアドバイスを受け、資料も多くあり、実際に立って調査可能なカーネル・サンダース人形について調べるということが決まった 。【目次案2】 日本にしか立っていないこの人形の「立ち方」「居方」について調べることで、キャラクターが日常にどのように馴染み、全国を網羅しているのか明らかにするためだ。後期中間発表を目前にして、この題材にすることが決まり、とにかく見てまわってみなければ考えているだけでは先に進まないと覚悟を決めた。夏休みに、ゆるキャラがなにか分からないから集めることが出来なかったという状態を反省し、引っかかることがあっても、何か分からなくてもとりあえずやってみなければ、行動をおこさなければ何も始まらないと感じた。時間がなかった。
 そこでまず、山手線沿線のケンタッキー・フライドチキンを訪問して、街で気になるものや、人形の姿を写真におさめ、どうしてそれが気になったのか、どういうことがあったのかなどまとめたレポートを作成した。
 そして、山手線沿線だけでは資料が少なく、説得力にも欠けるということで、東京都23区内のケンタッキー・フライドチキンの店舗を訪問することを決めた。 山手線をまわるだけで時間がかかった私は89店舗ある店舗数に圧倒され、当初2週間でまわろうと考えていたが、11月の半ばに決まった私には、見直し諸々を考えると卒業論文完成まで約1か月しかなく、多くの時間は残されておらず、1週間でまわらなければ間に合わなかった。そこで89店舗を1週間でまわることを決め、写真を撮り、観察し、周辺地図を書くことを実践した。
 初日は 、自分が見ていることが偏っていないか、調べ忘れはないか不安があったため、ゼミ長<しおりん>についてきてもらい、一緒に店舗をまわった。<しおりん>と別れた後、偶然出会った<松>にも一緒に数店舗まわって もらった。一緒にまわってもらっている間は心強かったが、次の日の大雨が降った日は全身に雨が吹き付け、傘が折れて写真を撮るのに苦労し、心が折れるかと思った。なんとかその日も予定した店舗をまわりきり、日が暮れて店が閉まるまで歩き、くたくたになって帰ってまた出発するという日々が続いた。そして、まわりきった時には全店舗まわりきった達成感を感じたが、実際にカーネル・サンダース人形はどう立っていたのかということを書きはじめたことが始まりだった。
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▼web要員・合宿担当1:<島>

 私は10月の頭に、友人に誘われた日舞の公演のためフランスに10日ほど行っていた。8月9月と6本のレポートを書いたことで、少し安心感を得てしまったのか、ゼミを離れても考える時間というのはたくさんあったはずなのに、なかなかテーマについて考えること、一緒に行った友人にアウトプットするなどをしなかったように思う。まだ私にはテーマが決まっていなかったにも関わらずだ。
 11月の中間発表時にはそのレポートを生かして、ボーカロイドのどのようなことを説明するか、つまり私の興味であるVOCALOIDと歌ってみた動画というボーカロイドの中での関係性についてやりたいと考えてはいたものの、それがどのような歴史の流れの中にあるものなのか、という定義付けができず、“それについて扱いたい”、けれども“何を明かすことを目的にするのか”という点を自分の中で明確にすることはできなかった。その結果、先生から助言を受けVOCALOIDの前史となる録音技術などについて文献を当たり調べることにした。
 中間発表後、ニコニコ動画アクセス禁止を自分に課した。私のこの、なにかについて明確にしようとしないという姿勢には、私自身ほだぎの中にしがみついている状況であるといえる。このほだぎとは、きのこを育てるためきのこの素となるものを埋める幹のことであり、私は幹に埋められ栄養は摂るもののそこから出るのを嫌がっている、外に出ることで自分が居心地良く埋まっている幹の存在を知ることを避けている状態なのだ。栄養部分であるニコニコ動画の視聴を止めることで、自分が今まで動画をどう捉えてきたのか、ニコニコ動画とどう付き合ってきたのかを距離をとって見ることに努めた。使用していたブラウザのブックマークからニコニコ動画のURLを削除した。この頃ゼミの時間内でゼミ生に手伝ってもらい、12月から提出に向けての私のスケジュールを一緒に考えてもらった。その際に、私は現時点で知っている・書くことのできることを「要素」として1万字、文章にしてすべて出しきるという課題を出された。テーマの方向性も決まっていない、目次もきちんと立っていない、という状態であった私が残すことのできる、文字という財産であり、今の自分にできることであった。
【目次案2】
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▼web要員・合宿担当2:松

 10月は、まだ卒論のテーマも目次も決まっていなかったことから、ゼミの場で発表する機会をいただいた。最初はまだダッフィーを題材に、どうして「みんな」がダッフィーを買うのかを「みんな」を中心に考えようとしていたのだが、ディズニーシーに何度も通う必要性があることや、そもそも私がダッフィーについて考え出したのがここ1年くらいしかないこと、ダッフィーがどのくらい市場に出回っていて、どのような層に買われているかの正確な調査が難しいことからダッフィーを題材にするのをやめることになった。
 代わりに、自分が幼い時から周りの情報を得る為に参考にしている点、また歴史が長く本という形態である点からまた雑誌というどこでも手に入り調査しやすいメディアであることから『Non-no』を題材に「みんな」そのものではなく「みんな」というイメージがどのようにして意識されているのかをテーマにすることが決まった。こうして卒論の基本となるテーマと題材がようやく固まった。
 10月は、実際に『Non-no』をゼミ生に協力してもらいハサミでページごとにばらばらに解体し、「記事」と「記事」に分けて床に並べ、現在の『Non-no』がどのような構造で出来ているか写真をとりながら調査した。初めはすぐに出来て簡単に終わるだろうと思っていた。ところが作業はすぐに中断した。「記事」とも「広告」ともとれるページが大量に出現したからである。初日はそれらも適当に「記事」と「広告」にむりやり分けてしまったのだが、ゼミでこのことを相談したところ、先生に「そういう記事とも広告ともとれないものがあるという事が重要なのだから、無理やり分けたのでは意味がない」という指摘を受けてはっとさせられた。またもや思い込んだままに突っ走ってしまい、せっかく気付いたことを見逃してしまったのである。2回目の作業時はこのことに注意し、新たに「記事とも広告ともとれるページ」を置く場所を作った。結果、床の殆どがこのページによって埋められた。
 これらの結果を参考にしながら、10月の後半からは、八幡山にある大宅壮一文庫という雑誌の図書館に行って1971年から続く『Non-no』のアーカイブを全て読むという作業を開始した。「みんな」の意識のされ方にどのような歴史の変化があるのか調べるためである。ところが、一年前まで『Non-no』が月刊ではなく隔週であったことから蔵書量がすさまじく、読んでも読んでも読み終わらないことに焦りを感じていた。こうした状況の中、第一章の執筆をさっそく開始した。このテーマに至るまでの動機、先行研究、『Non-no』自体の概要について調査し論文にまとめた。
 中間発表では、先行研究については社会学の「模倣」や「同期」という概念について詳しく調べ、文章量は一気に増えたのだが、肝心の『Non-no』の調査については不安を感じていた事を述べた。【目次案2】「もう目次だけ見て気になった『Non-no』だけを読みたい」という本音を言ってしまった。もちろんこれは却下され、私の卒論のオリジナリティが『Non-no』を解体したこと、『Non-no』を全て読んだことにあるのだということ、また自分が語りたいものだけを恣意的に選んでも意味がなくて、全部通して読むからこそ分かることがあるのだというご指摘をいただいた。前期から「自分だけにしか書けない卒論が書きたい」「自分の卒論と呼べるものが書きたい」と思っていた私にとってそれは大いに励みになる言葉だった。それから予定の空いている日は毎日、八幡山に通い、全ての『Non-no』を読み終えたのは12月の中旬だった。
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▼GM:きーにゃん

 10月初頭は、夏合宿からほとんど発展していないこのままのテーマでいいのだろうかと思いながら、クラブカルチャーを卒論のテーマにする上で必須事項となる箇所の執筆をすすめていた。また、夏休みに行なったクラブでのフィールドワークの調査報告をまとめるなどの作業も行なっていたが、このフィールドワークをどのような位置づけで卒論に取り入れるのかさえも明確ではなかった。自分ではフィールドワークでもっと多くのことを得られ、そこから何か捉え直せると想定していたが、思ったより得られたものは少なく、フィールドワークで得たものをどう捉えて良いかも分からなかった。糸口を掴めるはずだと奮起したフィールドワークであったが、更なる迷走を引き起こしてしまっていた。2年間の取り組みをどのように形にするのかが定まらず焦っていたが、やみくもに取り組むより今一度自分の目次案やテーマを大幅に見直すべきであると感じ、ゼミ生や友人、先生に話しを聞いてもらい多くの指摘やアドバイスをいただいた。その中で、わたしが直面していた問題とは、わたし自身のクラブカルチャーに対する理解がまだまだ不十分であったことや、どこが不十分なのかを適切に捉えられていなかったことに起因すると分かった。特に、クラブカルチャーという一種の音楽文化がどのような潮流の一端に位置づけられるのかを知らずに、クラブカルチャー自体に何らかの位置づけを試みようとしていたのが問題であった。自分の視野の狭さとは、こうした小さな世界で物事を考えようとしてしまう点にあるのだとやっと分かった。わたしはクラブカルチャーの何について知りたいのかを考える前に、クラブカルチャー自体をもっとよく知る必要があったのだ。
 そこで後期中間発表では、この卒論をクラブカルチャーとはなにか考えていくための導入として位置づけて取り組む方向に定まり、大幅な章立ての変更を行なった。クラブカルチャーという大衆音楽文化を知るために、大衆音楽やそれを成り立たせる技術、受容される社会などの歴史を知る必要があり、その整理を行なう章を設け、すでに執筆をすすめているクラブカルチャーについての箇所とつなげることになった。後期中間発表後は足りない知識を補うための文献調査と内容の整理を続けながらその扱い方を考えたが、18世紀末から現在までという200年以上の範囲をどのように区分し、項目をたてて追うのかに試行錯誤した。しかし、それまで全く分かっていなかった歴史を整理することは、同時に発見や新しいことに気付く日々の連続でもあり、楽しいと思えるときが多かった。自分のやるべきことが明確になったことで執筆に対する熱意が増し、ときには1週間で4万字程執筆するなど、残された時間で出来る限りのことをやるべく脇目も触れずがむしゃらに取り組むようになったのが11月であった。
 ゼミ生はそれぞれに進捗状況も違い、以前に比べて話し合いの時間もなくなっていたが、毎週顔を合わせるゼミの時間や進捗報告などが刺激になっていた。わたしも、自分の取り組みへの姿勢が他のゼミ生の刺激になればと思い、常に全力を注いだ。しかし、GMとして思うように取り組みが進まないゼミ生にもっと声をかけ、話しを聞いてあげるべきだったのではないか、など自分にはもっと出来たことがあったように思う。自分の取り組みは見通しが立ち、集中できるようになったが、その分ゼミ全体の向上を考えての行動が欠けていたというやはり視野の狭さに起因する反省が残った。【目次案2】
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