Calender: June,July



◆概要
 6月から7月にかけては、長谷川先生の著書である『アトラクションの日常 踊る機械と身体』(※1)の講読を行い、7月にはフィールドワークを実施した。
 また、8月初頭に行われる夏期集中講義(※2)の運営に向けての準備をおこなった。

※1 『アトラクションの日常』長谷川一 著 2009年 河出書房新社
※2 夏期集中講義とは、芸術メディア系列の3年生が夏休み中の3日間をかけて集中的に取り組む必修の講義。




◆ショートカット
<しおりん> / <ジェット> / <ワコー> / <けーたん> / <島> / <松> / <きーにゃん>





▼ゼミ長:<しおりん>

 テーマについて考えていたとき、日によって気になることが違うものの、結局同じようなところに行き着くことに気がついた。「アニメソング」や「憧れ」などのテーマは自分の中でつながっているのかもしれないと、その日ごとに気になることをメモするよう先生にアドバイスを受けた。再度考えた結果、春休みに視聴した『美少女戦士セーラームーン』のなかでも特に自分にとって思い入れのある「SuperS(スーパーズ)」のシリーズを題材にすれば、自分の気になっている複数のテーマに触れることができるのではないかということで、この作品を題材とすることが決まった。その後、このシリーズの前半を視聴しながら自分は何が気になるのかを明らかにしようと考え続けた結果、「越境」という言葉にたどり着いた。わたしははじめ「越境」について、男性と女性であったり動物と人間であったり敵と味方であったり、両者の間の境界を超えることであるというイメージを抱いていた。思えばこれまでに自分が惹かれてきたキャラクターや作品にはすべてこのような題材が使われており、自分はこうした「越境的」なパターンやキャラクターに惹かれていることに気がついた。
 また、『アトラクションの日常』の講読では、「はじめに」「第8章」「おわりに」を担当し、読後レポートには気になっていたテーマの一つであるアニメソングについて、第10章「夢みる」を参考にしながら執筆した。(works2.『アトラクションの日常』読後レポート) この「夢」という言葉も私のなかで気になっていたテーマと共通するものであり、アニメやアニメソングの中で歌われる「夢」という言葉を出発点に、アニメソングだけでなくこれまで当たり前のように「好きだ」と言ってきたアニメを違った見方で見直し、テーマと向き合うきっかけとなった。
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▼副ゼミ長:<ジェット>

 中間発表を終えて、ゼミの取り組みではゼミ生が運営するHPの開設と、『アトラクションの日常』の講読・発表が6月に行われた。
 講読では書籍をいくつかの部分に分け、各自が担当する部分についてレジュメを作成し、ゼミの時間に発表を行うという形だが、この取り組みを通して、論文の執筆のために書籍にあたるということがどのようなことなのかを実感した。
 私は読み込みが不十分であり、担当箇所にばかり目が行ってしまったこともあって、発表では自分が重要だと感じた部分をそのまま抜き出して読み上げているだけのようになってしまっていた。
 自身の担当箇所自体は本一冊の中の何割かでしかないが、その何割をちゃんと理解するためには一冊をすべて読み切った上で、その部分が一冊の中でどのような位置にあり、どのような意味を持つのかを知らなければならない。それは卒業論文を執筆する際にも同様で、文献や作品を通して知識を得たり、論文中で引用したりする際には、対象とする箇所だけではなく、全体におけるその部分の位置づけや、他の部分との関連を踏まえた上で、内容を読み取ろうとする必要がある。このことを『アトラクションの日常』の講読を通して実感できたのは、論文の執筆に対してだけでなく、今後作品を通して物事を考えようとすることに対してもとても重要だと思う。
 7月にはゼミの取り組みの一つとしてフィールドワークを行った。フィールドワークといっても、当日どこかへ行っておしまい、というわけではなく、事前に行き先の歴史や、行事の意味をゼミ生で話し合い、発表をした上で当日を迎える。それまでは行き先の歴史や行事の意味について考えることは皆無で、ただ楽しいからという理由で参加し、ただ楽しんで帰るというだけだったが、フィールドワークのために行った話し合いや下調べを通して、楽しむだけという立場とは少しだけでも異なった立ち位置で当日を迎えられた。この時期には、翌月に3年生の夏期集中講義のお手伝いが控えており、そのための機材と備品の申請、当日の打ち合わせや予行演習も並行して行っていたため目が回るような忙しさだった。
 振り返ってみると、6,7月に行ってきたことが卒論の執筆にどう繋がり、活かせるのかということをその時には深く考えられておらず、目先にあることばかりに気を取られていた。なにより自身の卒論のテーマについて考えることも滞っていて、中間発表から気になっていた自分の中にあるステレオタイプ的なイメージについても、ステレオタイプとは何なのか文献を当たろうと思ってはいたものの、何冊か文献を読んだりする程度で具体的な行動はあまり起こせずにいた。
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▼web長:<ワコー>

 6月1日、ついにゼミのHPを開設した。1ヶ月近く、ほぼ毎日学校に通ってHPの企画について話し合いを重ねた。その集大成としてふさわしいものが出来上がった。一人では絶対に出来ない、ゼミ生同士で協力しえたからこそ作り上げられたものだった。開設の時には、長谷川ゼミのWEB活動の基点となるものの完成を一人でも多くの人に見てもらいたくて色々な人に宣伝して回った。ここからHP上での活動記録の発信が始まった。
 6月の半ばからは、ゼミでのテクスト講読課題が始まった。課題図書である『アトラクションの日常』を、章ごとに担当を決めて、全員で精読した。3年生の時にも長谷川先生の授業でテクスト講読を経験していたが、その時は4、5人一組のグループワークで行なっていた。しかし今回は一人で一つの章を読み込むことになり、その分多く時間を要することはもちろん、内容を自分だけの視点で理解してしまいがちであった。私は発表の際にも、文中に登場した映像作品や資料などを紹介し、それが本文とどう関連しているのかを明らかにするということの重要性を見落としており、課題の多く残るものとなった。
 ゼミ全体としても、発表中の発言の少なさが目立っていた。感想でも意見でも質問でも、発表者に対して何らかのレスポンスを返すということができなければ、その人の発表を、全員にとって意味のあるものとして発展させられない。それだけでなく、先に書いたように、発表者が自分だけの視点で内容を理解してしまうのでなく、聞き手からの発言によって内容を違った見方で理解するきっかけを作ることも重要である。それらを改善すべく、私を含めたゼミ生全員で、発表の際には、発表者は文中に登場する資料を確実に準備すること、聞き手はあらかじめノートに質問や意見を数十個書き出してくることを決め、実践した。
 6月からは、8月に行われる夏期集中講義の準備にも取り掛かり始めた。現場班と記録班に分かれ、それぞれ現場班は<きーにゃん><しおりん><ジェット>、記録班は私と<けーたん><島><松>というメンバー構成になった。記録班は、主に講義の様子をカメラで撮影し、映像、写真として記録することが仕事となる。そのためにこの段階では、基本となる撮影技法についての勉強や、機材を実際に借りてきての撮影練習などを行なった。カメラを回して上手く撮影することは思った以上に難しく、悪戦苦闘した。また、7月に入ってからは、現場となるアートホールの下見に加え、リハーサルも行なった。
 7月半ばには学校から出てフィールドワークも行なった。そこでも集中講義の撮影の練習として、ビデオカメラを回しながら臨んだ。またその後は撮影した映像を編集しショートムービーも制作した。集中講義でも、撮影した映像を編集するという作業があり、フィールドワークはその一連の作業全てのリハーサルにもなった。  記録班として私は、集中講義に参加し、必死にテーマについて考える3年生たちの様子を、少しでも良い状態で記録したいという一心で準備に取り組んだ。撮影練習にしてもリハーサルにしても、常に当日のつもりで行なっていった。
 卒論のテーマについては、5月のテーマ発表時に課題となった、麻雀の何を論じ、明らかにするかということについて、うすぼんやりと考えるだけにとどまっていた。自分はなぜ麻雀をはじめたのだろうか、なぜここまで没頭し、身近なものになったのか、そして論文を書き終えて、麻雀の何を明らかにするのだろうなど、5月の発表時のことを思い返し続けていた。しかし今ひとつ鍵を掴めないまま、テクスト講読や集中講義の準備に追われていった。
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▼副web長:<けーたん>

 中間発表も終わり、6月からは『アトラクションの日常 踊る機械と身体』を精読し、全部で10ある章の中でゼミ生各自が担当する章を決め、発表する取り組みが始まったそのためゼミの時間では、一旦テーマを考えるところから少し離れることになった。
 本の細かいところまで読み込んで、分からない人にも分かりやすく伝えるにはどうすれば良いのか。発表をするのだからこそ、内容を知っている人にも、知らない人にも理解できるように、自分の担当する章は特に何度も読み返し、一文一文に対して「なんで」と思うように心がけた。章はそれぞれ別の箇所を担当しているものの、他の人が担当している章も、自分が担当する章同様読み込み、発表者が見落としている場所などを質問し、全員で一冊の本を深く読んだ。3年次までは、テクスト講読という授業で本を4、5人で同じ個所を読み発表する授業があったが、分担していた範囲のものを1人で担当するというのは、なんでどうしてと一緒に考える相手がいない分、より一層読み込む必要があり、読み手としての力が付くと同時に、書き手としても、この文を書くにはこういうことが必要であるということを考える力が付いたと感じる。
 この時期は就職活動にも追われながら自分と向き合わなければいけない時期でもあった。今までどういうことをしてきたかなど振り返り、そこで何が気になってどういうことについて知りたいのかということや、エントリーシートを書き、面接を受けていく上で自分自身について考えることが多かった 。電車に乗り、車内空間について考える機会もいつもより多かったが、注意深く観察してみてもなかなか何が気になっているのかはっきりすることがなく、これでいいのかと考えが元の考えに立ち戻ることもあった。卒論のテーマに近づいては、遠ざかり、考えがあまり進まなかったが、『アトラクションの日常』の講読に取り組んだことは、慣れ親しんだ作品や、自分が日常的に行っている行動を今までとは違った見方をくれ、それと同時に普段慣れ親しんで気付かないようなことにもこういった考え方も出来るのかと新しい視点をくれた。
 7月最後の授業ではフィールドワークを行った。その際には、8月の頭に行われる3年生の夏期集中講義の記録班としての練習として、ビデオを回し、写真を撮り、ショートムービーを作成した。私は写真を担当していたが、100枚近い写真を撮っても、アップしてみるとぶれていたり、全体を写したつもりが遠すぎてよく分からなかったりと写真を1枚撮るのにも注意深く撮らなければいけないと感じた。
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▼web要員・合宿担当1:<島>

 5月中タグと格闘していたゼミのHPが6月についに公開となり、数年前とは違う心意気で作り上げることができたという気持ちと共に、例えば「このHPはどのようなことを目的として立ち上げたものか」という文章をゼミ生と一緒に考えてきたことで、今画面に表示されている文章は見ている人たちに伝えることができているのか、という表現の点から慎重に冷静に客観的に見る姿勢が必要なのだと感じた。趣味の範囲で作っていたときにはそのようなことを考えた記憶はなく、作ったものが人の目に触れるということを改めて意識するきっかけとなった。
 6月の『アトラクションの日常』の講読発表の場では、私は作ってきたレジュメを読むことしかできなかった。本来この発表の場というのは、本の中に書かれているものを自分の中で咀嚼してわかりやすくし、プレゼンテーションする場だ。 しかしそのつもりで作成した私のレジュメは本からの抜き書きにしかならず、原稿もレジュメを読み上げている状態だったので、ゼミ生からの質問にはことごとく黙りこむことしかできず、助け舟が出されるのを待っているという態度で臨んでいた。発言することで自分がどの程度わかっているのか、またはわかっていないのかさえもアウトプットすることのできない状態であった。プレゼンテーションを聞く側は事前に読み込み、それに対して質問や意見を交わす準備をしてきている。そこで議論をしていき、お互いの理解を深めていくというのがこの発表の目的だからだ。その機会を自らふいにした私は、works2で公開した読後レポートで自分なりにアルバイト体験と結びつけて書くことはできたものの、そこに至るまでの大体は先生とゼミ生たちの助言によって成っていると言っても過言ではない。
 この態度は5月から進歩していないテーマに対しての態度にも表れており、先生に相談しに行ったり、ゼミ生や友人に話を聞いてもらう、ということも積極的にできずにいた。思考はアウトプットしないことによって完全に立ち止まってしまい、私のテーマに対する立場というのはいまだに「ボーカロイドというジャンルを楽しむだけの人」であった。
 7月には少し自身のテーマから離れ、フィールドワークや集中講義など、事前準備というものの大切さを知る機会となった。本番を迎えるまでに、頭だけで考えるのではなく実際身体を使うことでどのようになにが足りないのか、というのを実感し、足りないものに対してどのように対処すれば良いのかと先を常に考えるという姿勢を求められることで、前を向いて物事を考えられることを身をもって知ることとなった。
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▼web要員・合宿担当2:松

 中間発表の際に「消費社会論」という共通点を見つけて安心してしまったのか、この頃は卒論についてほとんど深く考えていなかった。本屋や図書館で本を見ながら、「わたしが書きたいのはこういうことなのだろうか」「でももう書いてあることを書いてもつまらないし」と本の影響を受け、さらには「自分には今までの学説で述べられていたようなこととは違うことを言わなければいけない、いや言うのだ」という明らかに自意識過剰なおごりたかぶった気持ちがあった。8月の夏合宿の発表でそれを非常に後悔し反省するのだが、この頃は全くそれに気付いていなかった。
 6月はゼミ全体での取り組みとして『アトラクションの日常』を講読し、私は第9章の「同期する」を担当した。この時も、普通に参考文献を調べたり、資料を見るのは面白くないと思い、自分なりの分析を『アトラクションの日常』には載っていない資料で説明しようとした。結果的には、『アトラクションの日常』の分析とはまるで違う分析だったが、一つの物事について表面上やセオリー通りの考え方ではなく、多角的によく考え、4月に立てた「常になぜそうなるのか、どうしてそうだといえるのかあらゆることに疑問符をつけて考える」という目標を、前期の中で一番実践した期間だったのではないかと思う。ただそれが卒論については全く生かされていなかった。
 『アトラクションの日常』の講読を終えたのが7月の中盤だったのだが、この頃には夏合宿がいよいよ近づいていて、周りのゼミ生が着々と準備をすすめ、ノートに必死にメモを残している中、ようやく私が卒論についてほとんど準備が出来ていないことに気付いた。あわてて「ツイッター」や「ダッフィー」についての文献を探して読んだが、どれも本当にこれで卒論が書けるのか自信がなかった。そもそも自分で考えようとせず、文献に頼ろうとしていたこと、また私が流されやすく文献の影響をとても受けやすいこと、一度これだと思い込んだらそれに向かって突っ走ってしまうことを春休みから危惧していたにも関わらず、すっかり忘れていたのである。
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▼GM:きーにゃん

 この頃は、ゼミHPの本格始動、『アトラクションの日常 踊る機械と身体』の講読と発表、フィールドワークのための事前準備、夏期集中講義に向けた準備などゼミ全体でさまざまな取り組みに励んだ。このような取り組みと並行して、日々集まって卒論のテーマについてディスカッションを行っていた。
 わたしはまだ単位の取得が不十分であったため、休み時間や授業の合間を見つけて話し合いに参加した。いくら2年目とはいえ、ゼミ活動には常に全力以上を要し、自身の授業数の多さから時間に余裕がなく、また、昨年度より広角でゼミ全体を見渡しての行動を課していたために、一時も気を抜けない毎日を過ごし、本当にあっという間に過ぎていった。わたしはGMという立場上、特にゼミ全体を見渡して行動する必要があったが、肝心の話し合いやディスカッションに満足に参加できなかったため、全体を把握しきれておらず常に不安がつきまとっていた。みんなが話し合いに励む時間に充分に参加できないなら、自分がまずやるべき「前期で卒論以外の単位の取得を全て完了する」という目標の遂行を徹底しようと自分に言い聞かせ、不安を払拭していた。参加できたときには、進捗状況を一通り確認し、誰がどのような姿勢で取り組んでいるのかに目を向け、状況に見合った意見やアドバイスをした。手取り足取りやるべきことを教えてしまってはゼミ生のためにならないと分かっていながら、あれこれ指摘したくなる気持ちを抑えるのにとても苦労したので、もしかしたらこの程度の参加度が適当だったのかもしれないとも思う。
 この2ヶ月はさまざまな取り組みに一生懸命になる一方で、自分のことで精一杯になりがちな時期であったからこそ、取り組みの意味を考えることや、チームワークが重要となった。わたしも初めてのフィールドワークを経験し、準備で周りが見えず至らぬ点も多々あったが、実際に行って見て何か得るためには、きちんとした下調べが必要であることを学んだ。また、この時期みんなでフィールドワークや夏期集中講義等のプロジェクトに向けて準備するという作業が重なり、日々集まって話し合う場を設けることを心がけていたため、ゼミ生の連帯感が増し、ゼミ全体で取り組んでいるという意識が見られるようになった。ゼミ全体の姿勢に変化が見られた時期であり、わたしもより一層「負けてられない」と奮起して取り組んだ記憶が濃い。また、ある目的のために準備に励む過程とは「そのために何をするべきなのか」「何のために取り組んでいるのか」を常に考えることであり、ベタな見方から少しでもメタな観点で見られるようになろうと意識した。このことは、ゼミ全体での取り組みでは意識できても、自身の卒論テーマにはうまく適用できず、自分のことをメタ観点で考える難しさを感じた。
 自身の卒論テーマについては思ったように発展が見られず焦る気持ちが募っていた。自分の関心や気になる点をノートにメモしても、それらをうまく関連させて思考を展開できない。そんなジレンマが続いていた。この手探りの状態をなんとか脱したいと思い、その思いを『アトラクションの日常 踊る機械と身体』の講読後レポートに注ぐことにした。
 昨年度も講読後レポートに取り組んだが、自分の育った環境と関連させての執筆であったため、今年度はクラブカルチャーで書こうと決めていたのだ。また、『アトラクションの日常 踊る機械と身体』の講読は昨年度に続き2度目ということもあり、卒論のテーマについて考えることと、講読の作業をできるだけ関連させ、並行して行なうよう意識していた。テーマについても、講読においても、昨年度とは違った観点での取り組みにつながるのではないかと思ったからだ。そのような姿勢で挑んだ講読の後、今一度自分のノートを見直し、バラバラに分散している関心の要素をかき集め、どのようなレポートを執筆するのか考えあぐねた。この作業は決して順調だったとはいえず、「今ここにある自分の関心だけでなんとか書き上げるんだ」とひたすら自分を追い込んでの執筆であった。その結果、中間発表以降に考え続けていた関心がつながり、自分のなかのもやもやを『アトラクションの日常 踊る機械と身体』の講読と関連させた『クラブ(※1)で踊るとはなにか』という1つのレポートとして、なんとか書き上げることができた。
 この講読後レポートがあったからこそ、目前に迫った夏合宿への見通しが立ち、モチベーションを維持することができた。その後卒論執筆中に見出したクラブカルチャーに対する自分の関心というものも、この講読後レポートが基盤になっていた。自分のテーマにめげそうになりながらも立ち向かった時期であった。(works2.『アトラクションの日常』読後レポート)

※1 DJが流す音楽にあわせて踊り、酒類を飲むことができる店舗のこと。

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