小説の読み方と私
<ジェット>



 私は影響を受けやすい。影響を受けたと思い当たるものは過去に見たTVドラマやアニメ、小説やマンガといったもので、特に高校生や大学生という自分と歳の近しい登場人物が主役となる物語からの影響が特に多い。自身が今気になっており、卒業論文のテーマ候補になっている「サークル(※1)」「ロマンチックラブ(※2)」というものも、昔見た物語にそのような要素が登場していることが理由の一つだろう。それらを見ることで、“自分もこんな風になりたい/こんなことしてみたい”と憧れを抱いたことが関わっているからだ。
 以前に行ったゼミでの卒論テーマの中間発表(※3)でテーマ候補についての考えを発表したところ、私がそれぞれに抱いている印象はとてもステレオタイプ的なものだという指摘を受けた。どちらに対しても自分の中に確立している基準めいたイメージがあり、それに沿えない自分への苛立ちみたいなものが自分の中にあった。
 それらのことを踏まえ今回は、以前に読んだ『一瞬の風になれ』という小説と、私自身のその小説の読み方を取り上げてみたい。なぜなら、私の小説の読み方も自身の持つステレオタイプ的なものの形成に関わっているのではないかと考えたからだ。

 この小説は高校生の陸上の短距離競技、特に100m走と4×100mリレーを題材とした小説で、主人公である新二を語り手とする一人称小説だ。物語の中には主人公や周りの登場人物の成長、挫折、恋愛など様々な要素が盛り込まれている。
 私の小説やマンガなどの物語の読み方は、基本的に一度まず通して読む。物語を読み終えるとおおまかな筋書きが頭に入るので、その後は読んでいて気に入った部分を繰り返し何度も何度も読む、というのが一連のスタイルとなっている。逆に読んでいてあまり好きになれないシーンもあり、それらの場面は読み飛ばしてお気に入りのシーンだけを何度も読み返す。
 先に挙げた小説の中で言うと、第三部「ドン」の第二章で、主人公が思いを寄せていた相手のレース後に駆け寄っていく場面があり、気に入って何度も読み返した。一度通して読んでいるためその後の展開は知っているのだが、それでも読んでいる時は次へと読み進めることが楽しみであり、予想通りの場面で終了するととても満足のいった気分になる。
 このシーンから私は「ロマンチックラブ」的な要素を感じ、読み終えるたびに“こんなことしてみたいな”と自分の中の理想像を組み上げていく。しかし、小説や、そもそも本というものも、それが語る内容の中に読み手を引き込んでいく機能―テーマパークのライド系アトラクション(※4)に似た部分―があるのではないだろうか。
 読み手は文を目で追い、ページをめくりながら頭の中にその内容を投影することで本の内容に引き込まれていく。それは通常の状態から「読む」という行為を通して本の中の物語へ入っていくことであり、一種のモードの移行とも言えるだろう。その上で今回特に注目したいのは、この小説の物語が主人公によって語られる一人称小説であることだ。
 ある報告が伝えられたり、報じられたり、語られたりする場合、そこには媒介者が存在する。物語は、「語り」を媒介にして読者の想像力に向かって間接的に提示する形式をとっている。小説では登場人物の語る台詞と、心情や状況を説明する地の文が存在するが、それらは何らかの存在を媒介にして「語られる」のだ。
 F.シュタンツェルは著書『物語の構造』の中で、語りの媒介性を形成する際のいくつかの基本形を述べている。その中で一人称小説というのは≪「私」の語る物語り状況≫というものに分類される。その特色は、語りの媒介性が完全に作中の人物の住む虚構の世界に立脚していることだ。つまり、作中人物の世界と語り手の世界とは完全に一致する状況である。
 私の挙げた小説の場合、物語を「語る」のは主人公である新二だ。よってこの小説で描写される様々なモノや心情などのすべては、新二が見ているもの/感じていることと同じものとなる。先の気に入っている場面を少々引用しよう。

 「気がついたら、俺は走っていた。スタンドを上って、階段を降りて。16位か17位はどうでもいいような気がした。それほどのナイス・ラン。ナイス・スパート。当人にとって、天国か地獄かの差があるのはわかりきってるけど。」(p.133 l12より引用)

 読むと分かるようにこの物語の中で語られるすべてはこの新二の視点を媒介にして読み手へと伝えられる。新二は自分の内心を吐露しながらも、一方で読み手である私にも「語り」かけてくるのだ。つまり「小説の内部にいる何者かが、小説の外部にいる何者かに向かって語っている(※5)」と捉えることができるだろう。
 主人公の視点を媒介として、読み手である私は語られる物語の中へと没入していく。ひとたびその視線で起きる出来事に目を向けさせられてしまえば、読んでいる間は自分が思い描いている視線=作中人物の視線であるという感覚は薄れ、それに気づくことはなくなっていくだろう。そしてそこで表象される経験が、あたかも自分が体験したことのように思われる。しかし一度読むことを止めてしまえば、その経験は自分が経験したものではなく、読むという行為で主人公の視点に乗り込み、そこでの出来事を周縁から観察しただけなのだと気付く。
 ここで、先に挙げた私の繰り返し気に入った場面を読むという方法に改めて注目してみたい。気に入ったシーンだけを抽出するということは、作中人物の視点すら取捨選択することに他ならない。アトラクションの中の気に入った部分だけを何度も何度も繰り返すことだ。そうして私のステレオタイプ的なものはどんどん強化され、固定されたものへと変貌していったのではないかと思う。
 この態度は恥ずかしながら普段の自分の生活でも見てとれる。“自分の気に入らないものは見たくない”“好きなことだけをしていたい”という部分が私にはある。それは周りに対して自分の見たいものだけを提供するよう求める態度であり、考えることの放棄である。『アトラクションの日常』の中での言葉を借りるなら、私はアトラクションに乗って「安心安全の保証付き大冒険(※6)」を経験したまま、ずっとアトラクションの「参加者」のままでいたがっている。いわば望んで自分を管理する眼に見えないシステムに取り込まれようとする姿勢であり、それでは到底「生」や単独性は手に入らないだろう。

 この課題を終えてから、紹介した小説を今までは読み飛ばしていたところを飛ばさずに改めて一から読み返してみた。そこで、今まで私は三部のうちの一部、まだ序盤で主人公が目に見えるタイムでの成長を遂げる前の段階をあまり好んで読んでいなかったこと、反対に三部でそれまでの成果が結実し、全国大会の切符を掴み取るところをよく読んでいたことに気づいた。私が読む物語の多くは「努力して」「成長する」という構図のものが多く、それだけ自分はそういったことに憧れているのかもしれない。しかし、現実では成長とは大概は眼に見えないものだ。それは中学時代の陸上部での経験が物語っている。だからこそ、私はこういった物語を特に好んでいるとも考えられる。
 今私がすべきことは物語をちゃんと読むことだ。今までのように媒介者の「語り」をただ受動的に受け取ることでも、ましてや気に入った箇所だけを取捨選択することでもない。そこに書いてある内容を、誰の目でもなく自分自身で見ようとすることである。そしてこのことは単に小説に対してのみ言えることではなく、日常的実践においても必要であることは間違いない。




◆注釈
※1 ここでの「サークル」とは、社会人なども所属している広い範囲にまたがる団体ではなく、一般的に大学に在籍している者が所属できる大学の中の団体を限定的に指す。

※2 社会学のイデオロギーで、恋愛はある一定の定められた相手と巡り合い、その人と恋をして結婚し一生を幸せに過ごすべきだという考え方。

※3 詳しくは当ゼミHPのWoks「第一回テーマ発表の振り返り」を参照していただきたい
http://www1.meijigakuin.ac.jp/~hhsemi11/works/110607_006.html<ジェット>の項

※4 「ライド系アトラクションに乗ることは<中略>モードの移行という経験だともいえる」長谷川 一『アトラクションの日常』2009 河出書房 p.58 l.1より引用。乗り込むことで乗客をパフォーマンスを見て回る通常ではできない特殊な体験に誘うように、それに触れる者を通常とは異なるモードへと移行させる。

※5 『物語の構造』p.40 l.13 より一部引用

※6 「外部と内部、主体と客体の分離を保持しながら、同時にその境界を乗り越えて、風景と親密に関係することでしか得られないリアリティをも手に入れること」『アトラクションの日常』p.56 l.1より引用。
乗客は乗り込むことで様々な経験をするが、そこで生起するあらゆる出来事は管理された上で実現している。 




◆参考文献
『一瞬の風になれ 第一部 イチニツイテ 』 2009 佐藤 多佳子著 講談社
『一瞬の風になれ 第二部 ヨウイ 』 2009 佐藤 多佳子著 講談社
『一瞬の風になれ 第三部 ドン 』 2009 佐藤 多佳子著 講談社
『物語の構造』 1989  F.シュタンツェル著 前田 彰一訳 岩波書店