点字ブロックと同期する
<松>



 私が現在の最寄り駅に越してから一年近く建つ。この駅はホームが離れていて、反対側の出口に行くには階段かエスカレーターを使う必要がある。三か月ほど前からこの駅で、同じ時間にあるお年寄りの姿を見かけるようになった。前から四両目くらいの車両にいつもいる。私と同じ駅から乗車してくるのですぐ分かるのだ。この路線の各駅列車は割と空いているので、そのお年寄りも大抵座っている。彼はいつも杖を持っている。初め、私は彼が老人であるから足腰が弱っているのだろうと思っていた。しかしどうやら様子が違うらしい。駅に降りてから彼はある線を杖でたどたどしくなぞるように歩いている。老人であるのにもかかわらずエスカレーターを利用せず、階段で上ってくる。そしてまた一つの線をたどり、階段を下りるのである。
 そこで私は初めてあることに気がついた。このお年寄りは目が見えないのである。彼が持っていたのは視覚障害者用の白杖で、なぞっていた線は点字ブロック だった(※1)。
 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(※2)というデンマークの映画がある。この映画の主人公はアメリカの工場で働くチェコから来たセルマという女の人だ。彼女は遺伝性の障害でもうすぐ失明する運命にある。彼女はミュージカルが好きで、目を閉じ頭の中で、それを披露する。元々彼女はそういった空想が好きなのだが、本編では主に彼女が危機に瀕したシーンにその空想が挿入される。今まで手動だったカメラが固定に代わり、まともに働いていた人たちが踊りだし突然ミュージカルに入るのだ。ここではこの映画における初めての空想シーンに注目したい。彼女は眼を閉じ、その工場の機械のプレスする音や人々が金属板を重ねる音を聞く。それがだんだんリズムを刻むようになり、周りで働いていた人たちが踊りだし彼女が歌いだす。まさに「踊らん哉」(※3)のミュージカルシーンのように機械と人間が歌と踊りによって共演し同期しているように見える。そして現実のシーンに戻る。完全に失明していた彼女は工場の中、手さぐりで機械を触ってしまい、その機械を壊してしまっていたのだった。
 視覚障害者の彼女にとって周りの環境を知る手段はこのような触覚や聴覚だ。この映画ではミュージカルが入るため、とくに聴覚の影響は大きいように見える。もちろん実際の視覚障害者にとっても聴覚は周りの状況を知る重要な手掛かりだ。
 ところが「音」には問題も多い。例えば騒音問題だ。道路工事付近の横断歩道は、たとえ信号に視覚障害者用のチャイムがついていたとしても聞こえにくく、一歩も動けなくなり、また高速道路の高架下付近では車が行きかう音が多すぎて、今、自分が道路を渡れるのか判断しにくいこともあるという。聴覚にだけ判断を頼るのは余りにも危険だ。
 そこで触覚が注目される。とくに日常生活において視覚障害者の頼りにする手段は点字ブロックと白杖である。
 点字ブロックは日本で発明されたものだ。岡山に住む三宅精一が数年前から視力が低下していた友人、岩橋英行の「突起物なら分かる」という言葉をヒントに考案し、1967年3月18日世界で初めて岡山県立盲学校近くの横断歩道に230枚敷設された。
 点字ブロックは「視覚障害者が外を安全に歩けるようにするため」という「ある目的の為に作られた機械」であり彼らのまさしく「日常生活のための物理的機械」という意味で点字ブロックは「セット」と言えるのではないだろうか。しかも彼らは日常生活を送るため必ずこれを反復して使っているのだ。
 そしてこの機械は「セット」の条件を満たす上で重要な「局所的」な使われ方をしている。ここでいう「局所的」には二つの意味がある。第一に物理的にまさしく局所的にしか存在しないという意味だ。それは駅の中や街の中、あらゆる場面で物理的に存在しているように見えるが、実はそのような限られた空間にしか存在しない。例えば私の最寄り駅では駅構内にしか点字ブロックは存在せず、駅をでたらすぐに商店街に繋がる。バス通りで晴眼者にとっても大変危険な道なのだが、もう点字ブロックは存在しないのだ。また改札が五台あるのだが、そのうち点字ブロックが敷いてあるのはひとつしかない。以前たまたまこの点字ブロックの敷いてある改札だけが故障した事があった。その時ちょうど白杖を通った男性が来たのだが、彼はここでどうしてもつかえてしまった。結局駅員に助けてもらうことになる。こうして視覚障害者はセットに繰り返し同期したことによってその枠組みに枠づけられ、「視覚障害者」として晴眼者の眼前に主体化してくるのだ。
 第二にだれもかれもが使うわけではないという意味がある。すなわち視覚障害者のためにしか「セット」として存在しないのだ。しかもそれはある道筋をなぞることによって彼らにその道をあるくことを示している。点字ブロックは彼らに主体的にその道を歩かせつつ、彼らの通る道筋を強制しているのである。
 またこの第二の意味によって生まれた裂け目をもう少し紹介しよう。私の友人に東京メトロの朝のラッシュ時刻に客を電車に押し込むバイトをしている者がいる。その友人曰く白線がある線路では「白線の内側にお下がりください」と注意するのだが、ない線路では「黄色い線の内側にお下がりください」というのだそうである。JRではとくにこの黄色の線のパターンが多いそうなのだが、この「黄色い線」をたまに点字ブロックの意味で使っている駅員がいるという。確かに晴眼者にとってそれは、ホームと電車を区切るためのただの目安となる境界線にしか見えない。(弱視者にとっては、黄色はまだ見えやすい色らしいが)しかし盲人の視覚障害者にとっては、それがなければ、命取りになるような重要な線なのだ。視覚障害者が外の環境でもっとも恐れるのは駅のホームだという。点字ブロックが急速に普及したのは、1973年国鉄高田馬場駅で起きた盲人施設に通う男性の転落死事故がきっかけだ。その裁判後、点字ブロックは全国の駅のホームで広がっていくようになる。彼らにとってそれが黄色なのか白なのかはそもそも見えないので関係ない。つまり「黄色い線までお下がりください」という言葉は晴眼者にとっての注意であり、彼らにそれを「点字ブロック」として意識させるのではなく単なる目安としての「黄色い線」として意識させるのみに留まっている。
 思うに普段我々は点字ブロックを「点字ブロック」として意識して日常生活を送っているだろうか。それは視覚障害者が使用した時に初めてセットとして眼前に現れるのだ。それまでは急いでいるときに躓きやすい床、まさしく足腰の弱い老人にとっては地面の平坦さを邪魔するものでもある。晴眼者にとっては一見煩わしいものだったり意味のないものになりうる。ところが視覚障害者にとっては文字通り生命線なのだ。点字ブロックの上に物を置いたり、ゴミを捨てたりする行為はそういった「セット」としての意識を完全に晴眼者に忘れさせている。
 件のお年寄りは、三か月たつと、以前はたどたどしかった足取りもだいぶスムーズに動くようになり、白杖を突く回数もいつの間にか減っていた。彼はこれをバリアフリーというシステムだとして使用している。しかしそれはセットによって繰り返し反復された同期するアトラクションなのだ。かくしてお年寄りは「視覚障害者」とし私の眼前に表れ、今日も同じ時間にこの駅に現れる。




◆注釈
※1 他にも視覚障害者誘導用ブロックという呼び方もある。
※2 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」ラース・フォン・トリアー監督 松竹配給 2000年公開
※3 「アトラクションの日常」長谷川一著 河出書房新社 2009年出版 第9章参照




◆参考文献
「わが国の障害者福祉とヘレンケラーー自立と社会参加を目指した歩みと展望―」 日本ライトハウス21世紀研究会著 教育出版 2002年出版
「知っていますか 視覚障害者とともに 一問一答」 楠敏雄 三上洋 西尾元秀著 解放出版社 2007年出版