日常の「生」と「死」
<けーたん>



 本文の1行目に、「わたしたちの日常生活には、いまや無数の<アトラクション>が繁茂している」(P3-L1)とあるように、10のアトラクション描かれている本書では、どれも生活に密着に結び付いており、切っても切り離せない社会システムに私たちの日常は組み込まれていることに気付く。本当にごくありふれた誰もが経験している日常であるからこそ、知らず知らずのうちに内側にいて、気付いたら外側から見ることが出来なくなってしまっている。本書を読んで、日常にはこんなにも多くの不可解な点があり、気付くこともしないまま生活をしていると感じたと同時に、もう一度この日常生活を見直してみようと思う。 

 朝起きることから私の一日は始まる。たいていは学校に行くため、身の回りのことを済ませたら学校に行く。学校にいくまでは、駅まで歩き、そこから電車を使う。電車は特に決まった時間の電車に乗るわけではない。電光掲示板で時刻を確認し、電車を待っている間には、携帯電話でメールをチェックしたり、ニュースをチェックしたり、今お気に入りの『ウォーリーをさがせ!』のアプリに夢中になる。
 ここまでの間は、毎日ほぼ同じことの繰り返しである。お気に入りのアプリが『支払技術検定』に変わっても、毎日決められた「習慣」がある。これは、アトラクション7にも書かれている「日常生活という実践を組織する原理」である。私はこの山の上の老夫婦のような決まりごとの反復に対する熱心さはない。そもそも毎日同じような生活を送るのは嫌だと感じてしまう性質である。日々新しいことを求め、変化のある毎日を期待し、そんな毎日を送ろうと実行する。
 しかし、「習慣」はある。時間は決まっていなくても、ほとんどの時間に流れがある。朝は朝ごはん、昼は昼ごはん、夜は夜ごはんといった流れのみならず、家を出る前には電車の時刻を調べ、駅に着いたら暇つぶし。どれも一つ一つ、反射的要素のようなものであり、それが全て組み合わさると一つの流れになる。その一連の流れを組み合わせたものが私の「習慣」であり、一日、そして一カ月、一年の流れである。靴を履くときは左から履くといったちょっとしたゲン担ぎも、テレビの占いのアドバイスがきっかけでやり始めた習慣と考えると、この「習慣」はふとしたきっかけで起こったが、「習慣化」してしまったばかりに、これをしないとなにか嫌なことが起きそうだ感じてしまう。変化を期待している一方で、嫌なことは起きないでほしいという思いを持って、気付かないうちに熱心に行っているこの「習慣」こそが、自身の生活を変化のあまりないような生活に縛りつけているような気がしてならない。

 日常生活というのは、このような些細な面でも違う立場から見ると全く違うものに感じたり、あたり前の毎日に恐怖を覚えたりすることもある。いかに自分が日常の物に対して、当たり前と感じているかを実感したもう一つの例をあげてみよう。

 六本木ヒルズで開催されているスカイアクアリウムを見たいと思い、六本木に行った。目的のためにチケットを購入したところ、森美術館鑑賞もついてきた。せっかくだし観に行こうと思い森美術館に行くことにした。『フレンチ・ウィンドウ展:デュシャン賞にみるフランス現代美術の最前線』である。その展示会のことも何も知らなく、デュシャン賞が何か、ましてやデュシャンも知らなかったが、新しい発見を求め、わくわくした気持ちで進んだ。
 入ってすぐのところに何点か展示されている中、私の目の前には、シャベルが置いてあった。どこが美術なのか、私にはシャベルにしか見えなかった。しかし、そのシャベルは『折れた腕の前に』とタイトルを持って、美術館の一つの展示物として存在している。その様子にどこか異様なものを感じてきた。それが何なのか早く知りたくて、なぜ『折れた腕の前に』であるのか知りたくて、ヒントは隠されていないかとしばらく立ち止り、探した。しかし、何度見てもただのシャベルである。ただ疑問なのは、そのシャベルには不思議なタイトルがついてあることだけである。そして、その隣には便器が置いてあった。『泉』と名付けられた便器は、同じくタイトル以外はただの便器であった。このもやもやとした気持ちを早く解消したいと解説を読んだ。ところが、このもやもやが、すっきりと解消されることはなかった。解説を読んでもシャベルはシャベルであり、便器は便器だったのである。新しい発見があると期待した私は少し落胆した。

 この二つの作品は、フランス出身で、アメリカで活躍した美術家のマルセル・デュシャンの作品である。ニューヨーク・ダダの中心的人物とされている。ダダとは、ダダイスムと呼ばれる芸術思想・運動のことである。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持ち、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を持っている。その一人であるデュシャンは、人生の意味の疑わしさから導き出した「レディ・メイド」により、ものが用途を外した時に見せる別の表情に、目と耳を傾けようとした。あれこれの物体を、見捨てられた物の死の世界から取り出し、特に観察されるべき芸術作品の「生きた世界」においた。この観照がそれらを芸術にすると考えたのだ。
 私が考えていた期待というのは、この大量の既製品が作品として存在しており、なぜこれが他の既製品と違うのかという新しい発見だ。しかし、結果は予想通りの「ただのシャベル」「ただの便器」であり、そこで私は落胆を感じた。「ここから先には入れません」というラインがあることで、私たちと作品との距離が生まれ、既製品とは違うどこか異様なものに感じた。しかしその二つは、どこにでもありふれている既成品なのである。そのシャベル、便器に対して、良くは分からないが芸術作品であると感じた。そこに新しい価値があると考えたこと自体が、デュシャンの狙い通りだったのである。
 大量に生産されると、その存在はあって当たり前のものになり、その一つ一つには意味をなさなくなる。私がしている毎日の「習慣」もその一つだ。一つ一つの習慣が一連の流れとなり、人生を形成する。既成品に意味を付けることが、見捨てられた物の死の世界から取り出し、特に観察されるべき芸術作品の「生きた世界」にすることと同じように、「習慣」である一つ一つを考えなおすことは、あたり前と化した中で縛られている「死」の動作を、「生」の世界にすることが出来るのではないか。




◆参考文献・URL
『アトラクションの日常 踊る機械と身体』長谷川一著(2009年7月/河出書房新社)
『ダダ―芸術と反芸術』ハンス・リヒター著(1969年6月/美術出版)
『快読・現代の美術 絵画から都市へ』神原正明著(2002年1月/勁草書房)
http://www.mori.art.museum/contents/french_window/exhibition/index.html(2011/07/26取得)