サークルとロマンチックラブ 〜第一回テーマ発表を終えて〜
<ジェット>



◆発表の概要
 今年この長谷川ゼミで卒業論文を執筆するに当たり、卒論の対象としたいと考えている「サークル」と「ロマンチックラブ」について、事前に用意したレジュメに沿って話した。

 「サークル」とは社会人なども所属している広い範囲で所属できる団体ではなく、大学に在籍している者が所属できる団体で、大学の学則などの書面では「学友会」や「同好会」など様々な呼び方で呼ばれているものを今回の発表では私の考えているサークル像とした。
 「ロマンチックラブ」とは社会学のイデオロギーで、恋愛はある一定の定められた相手と巡り会い、その人と恋をして結婚し一生を幸せに過ごすべきだと言う考え方である。

 話した内容は、それぞれについて“興味を持ったきっかけ”“これまでの対象との関わり”“これから調べたいこと”の3つの項目を作り、それを軸として自分の体験を交えて説明した。またサークルについては今の私が抱いているサークルに対するイメージを“私のサークル像”という項目を設けた。



◆発表を終えて
 私のテーマは突き詰めると自分が理想としているイメージに関係するものだった。“大学生活といえばサークルだ!サークルに入って楽しいキャンパスライフを送りたい!”“ドラマみたいな恋愛がしてみたい”というような理想像が自分の中に居座っていて、大学入学前から在籍している今でもその理想像を目的地としている気がする。しかしそれが私の中のステレオタイプであるということに気付いていなかった。

 自分の中の理想像と自身の現状を比較すると、サークルには所属しておらず、ロマンチックな経験もない気がする。だからそれらをテーマとして卒論をかくことで、そんな自分に折り合いをつけることができたらいいなという気持ちがあった。卒論の執筆を通して「理想と考えているものは作られたイメージだ。だからそれに沿えないことは悪いことではない」みたいな結論を求めていたのだと思う。

 なので、発表後の先生による「ステレオタイプ的なものを規範としてしまい、それに沿えない自分に対して挫折感やいら立ちを感じているのではないか」という指摘は「サークル」「ロマンチックラブ」に対して私が抱えているなんだかもやもやとしたものを固形化してくれたと思う。さらに私のサークル像については大学が現在のような大衆娯楽的な性質を持ってきたのは1970年代であり、1980年代から大学生も消費者として一種の“商品”となったことが関係していると思われること、ロマンチックラブについては“恋愛”という概念は明治時代に西洋から輸入された考え方であるというヒントをいただいた。

 発表を終えた今でも、卒論を通して私の持つ理想像と今の自分との折り合いをつけたいという気持ちは残っている。ただ発表後の先生やゼミ生との討論でそもそも私は“こうあるべきだ”というイメージを強く意識し、そこから逸脱することを嫌う傾向があることや、テーマに対して後悔に似た気持ちが根強く残っていることが分かった。

 私は大学一年の秋ごろに所属していたサークルをやめてしまったが、その経緯をゼミ生から質問され、やめたことを後悔していないかと訊かれた時、そのことを引きずっている自分はいると感じた。実際、「あの時こうしていたら理想とするものに近付けていたかもしれない」という気持ちが根強く自分にあり、同時に自分が理想とするイメージにかなり囚われていることも分かった。

 発表まではそれが今一つ見えていなかったし、うすうす感じていたのかもしれないけれど、面と向かって自分のテーマとして向き合っていなかった気がする。
 しかし、発表を終えたことや質問・指摘を通して自分が今までこだわっていたことが明瞭になったことで、今は私の持つステレオタイプ的なものに対して正直に向き合える気がしており、とてもすっきりとした気分でもある。ゼミ生の助けもあって今の段階で一皮むけられたことがとても嬉しい。

 今後の課題としては以下の三つを行おうと思っている。
 1.「ステレオタイプ」について書籍をあたり知識を深め、自分のステレオタイプ的なイメージと思われるものと比較する
 2.それを規範として従おうとしてしまうのはなぜか、自身の具体的な経験をもとに考える。
 3.大学が大衆娯楽的になった1970年代と、大学生が“商品”となった1980年代、“恋愛”という概念が輸入された時期を対象と合わせて調べる。
 とにかく現状では私の経験がベースとなっているだけで、客観的な見方や知識が欠けているため、書籍に多く触れてそれらを補っていきたい。


 どうして私はステレオタイプ的なものに惹かれてしまうのか。またステレオタイプ的なものを規範として、それに従ってしまう自分。発表を通して分かったことは多いけれど、それ以上に疑問も増えた。しかし、今私が卒論を通して掘り進めようとしているところは自分にとって切実であるという感覚は強い。
 まだまだテーマも題材もあやふやで、とりかからなければならない問題は多い。だが、一つ一つこれらをクリアして、私自身が作り、私を捕えているイメージと向きあうことは必ず今までとこれからの自分にとって役立つものになるはずだ。