飽きる・ツイッター・ダッフィーについての発表を振り返って
<松>



◆発表の概要
 私は自分の中で気になっているもの三つをテーマとして発表した。一つ目は「なぜ飽きるのか」についてである。私には、はっきりこれが趣味だと呼べるものがなく、何かに関心や興味をもってもそれが一時的ですぐに「飽きて」しまう。なぜ私は飽きてしまうのか、そもそも飽きるとはどういう状態を意味するのか、自分なりに考えたことをまとめ言葉の意味を調べた。同じことの繰り返しという行為に飽きを感じるということ、現代の人々は興味関心が移りやすくなっているのではないかと感じていることを発表した。「飽きる」という感情は自分の性格や人生において深くかかわることなので今回発表した三つのテーマの中では一番切実なテーマだと思っている。

 二つ目は「ツイッター」についてである。SNSツールとして最近話題のツイッターを私も今年の二月ごろから使い始めた。私はツイッターに微妙な違和感を抱いている。「つぶやく」という名目で使っているが、そもそも私たちは親指を動かして文字を入力しているだけでその間ずっと「無言」のはずだ。またメールとも違い必ず相手の返事を必要としていないあいまいなツールでもある。さらに自分の感情を「つぶやく」ように文章にしているのにもかかわらず、言葉にして直接伝えなければわからない微妙なニュアンスや思惑が抜け落ちていてそれが原因で、トラブルが起こることもある。一体ツイッターとは何なのか、人々はどういう意志をもってこのツールを使っているのか、使っている私自身にも見えていないツイッターの「わからなさ」がとても気になっている。

 三つ目は「ダッフィー」についてである。ダッフィーとはディズニーのクマのキャラクターなのだが、ダッフィーそのものよりも二年ぐらい前からディズニーシーで流行しているという「ダッフィーのぬいぐるみを持ってディズニーシーに来園する」という行為が気になっている。アトラクションや買い物をし、ディズニーシーに遊ぶために来たにも関わらず、クマのぬいぐるみをずっと持ち続けているのは邪魔ではないのかという単純な疑問やディズニーリゾートの「パレード」や「ファストパス」などのほかの遊園地とは違う遊びかたによりできているこの遊園地ならではの定型化された行為、さらにそもそも「クマのぬいぐるみ」自体に昔からある人々をひきつける魅力など、私自身と深く関わることはないのだが、ダッフィーの周辺において、気になることが多い旨を伝えた。



◆発表を終えて
 発表中に感じたことはまずダッフィーについてなのだが、これについては私以外にもゼミのメンバーで疑問に感じている人が多いということが意外でもあり、やはりそう思うだろうという納得もあった。周辺の友人が、なんの疑いもなくこのぬいぐるみに夢中になっていることについても不思議に感じていたからだ。またダッフィーは「離れ離れになる恋人」に渡すという設定上、恋人同士の仲を深めると思うカップルもいるのではないかという話も面白かった。またツイッターも個人によって、もとから返信を必要とせず、自分の感情の整理をつけるために使う人、友人との連絡手段としてのみ使う人など人によってその目的と使い方が全く異なっていることが分かった。飽きることについては自分の趣味だったものを一つ発表したのだが、好きになった理由が、「とりあえずかっこいい」「なんとなく歌詞がすごい」など薄っぺらで、客観的にみると、そもそもそんなに好きにみえないという指摘に、自分自身驚きながらも確かにそうだったかもしれないと自覚させられるものがあった。また私は「趣味は人の人生を豊かにするもので必ず持たなければならない」という前提を知らないうちにもっていたことも分かった。

 発表する前はこの三つのテーマに私の中で関連性を感じなかったのだが、すべてがポストモダン社会にあるもので、「ツイッター」も「ダッフィー」もビジネスをする側に、あたかも自分自身が「したい」「ほしい」という欲望を感じているのだと刷り込まされ、さらに次々と新しい商品を生み出し、新しい欲望を作り続けることで私たちは自然に、今まで抱いていた古い欲望に「飽き」を感じてしまうのだということがわかった。また利便性がないにもかかわらず「ダッフィー」などのぬいぐるみをつけ持ち歩く行為は「私はこういう風にみられたい」という自己の同一性にかかわるものであることもわかった。

 私がテーマだと感じていたものには「消費社会論」という重要なテーマの題材の一部としてつながっていた。私の個人的な性格だと思っていた「飽きる」こともこの大きな社会システムによってもたらされたものなのかもしれない。もともと社会学が好きなこともあって今は「消費社会論」がとても気になっている。今後はこれを軸に卒論のテーマについて考えていきたい。