VOCALOID-PVに描かれるオリジナル人物への違和感について
<島>



◆発表の概要
 ニコニコ動画にアップロードされるオリジナル曲には大抵その曲をイメージしたイラストが使用されている。それはVOCALOIDを使用したものも同じ。イラストを使用することによって“イメージイラスト=曲”の等式が立ちやすい。初音ミクの話題性によってVOCALOID曲が増え始めた2007年頃は、公式HPから引用してきたVOCALOIDのイラストを使用したものが多かったが、今では自由に二次創作として1曲丸々PVを自主制作して上げる人もいる。そんな中、初音ミクらVOCALOIDキャラクターではなく、制作者のオリジナルキャラクターをメインに動画を作る人も増えてくる。もちろんそのオリジナルキャラクターが“=曲”に繋がる場合もある。

 “VOCALOIDを使っているからVOCALOIDキャラクターのイメージをその曲に付与しなくてはならない”という規定もないし、二次創作の場においてオリジナルキャラクターの介入がありうるというのも理解しているつもりだ。しかしVOCALOIDオリジナル曲においての“オリジナルキャラクター=曲”の等式に私は違和感を覚えた。なぜ違和感を覚えるのか?私はVOCALOIDという存在に何を感じているのか?というところからテーマに挙げようと思った。



◆発表を終えて
 私は「VOCALOIDとは何か」という問いに対して、大抵「ヤマハが開発した音声合成技術」そして「初音ミクっていう緑髪のツインテールのイラストとか見たことない?」というような返しをする。
 発表後のディスカッションにおいても同じ質問を受けた。上の答えと共に、レジュメに記載してあったVOCALOIDを使用した動画についての説明をした。あまり、理解されなかった。元々上の説明をしても大体の質問者は「そういうものもあるんだ」と軽く流してくれる。その場合私は「大して興味のないものやアカウント制の閉じた世界の話だとこういう反応なんだな」と思うわけだが、今回はそれとは違う。“私の発表”のテーマとしての基礎知識として質問をされたのに、その基礎知識を相手に理解できるように説明ができなかった。説明している最中にそれを意識することでどんどんと自分自身がどこに論点を置いてどう自分の中のVOCALOIDというものをアプローチして良いのかがわからなくなった。
 また発表内で“VOCALOID”という言葉が“機能そのもの”もしくは“キャラクター”を指していたため、わかりやすいように後者を「初音ミク」と称して説明をしたものの、発表の最中ずっとそう例えていたので自分が“VOCALOIDのキャラクター”について話しているのか“初音ミクのみ”について話しているのか自分で混乱し、またそのことを理解されていたのかどうか少し不安であった。

 ディスカッション時はとにかく質問者がどんな答えを求めているのかわからない、ということで頭がいっぱいになったが、おそらく私の中のVOCALOIDというものがしっかりと固定されていないことが大きいだろう。自分が好きなものなのだから知っていて当たり前、なものがいかにあやふやなものであり、またテーマとして挙げたい身としていかに論点が不明瞭であるかがわかった。

 発表を終え改めて自分の発表を振り返ると、ひっかかりを感じた1作品をレジュメで取り上げ、それは“PV”として仕上げた作品であったために“VOCALOID-PV”として考えていたわけだが、よく考えれば私が着目したい“オリジナルキャラクター=曲”の等式には必ずしもPVを前提とした作品だけではなく静止画のものも多く存在している。動画か静止画か、というところに比重を置きすぎるのも良くないとわかってはいるが、考える枠として決まりがなさすぎる範囲で発表を行ったことを自覚した。
 また“オリジナルキャラクター=曲”という等式の関係はなにを持って“等式”と言えるのか。そう思い込んでいるだけではないのか、という自分自身への疑問が増えていく。

 発表を終えて感じたこと。もやっと思っていることを聞いてもらえて良かったと思えたことと同時に、果たして本当にこれが自分にとって切実なものであるのか、という、よりもやもやもやっとしたものが湧き上がったのも事実だ。
 中途半端な知識、改めて知った自分の中にあった“好きなもの”に対するあやふやな認識。それらはほとんど今まで私自身がVOCALOIDを対象とした時に「好き」の一言で終わらせてしまっていたことのように思う。

 そこで終わらせないためにはやはり、VOCALOIDやニコニコ動画という分野の知識がない人に対してもきちんと理解のできる説明ができるようになること、またそれを踏まえた上で、今回の発表のテーマとして自分はなにを土台にして発表したかったのかを改めて考え直すこと。そしてもちろんVOCALOIDをそれだけとして見続けるわけではなく、私の違和感に繋がる何かを常に模索できるように視野を広く深く持つことが今後の課題だと考えている。

 最後に、先生に指摘された、「これだけ知ってる自分はすごいだろう」という位置に居直らず、また私はこの“好きなもの”を通してなにかを明らかにしたい、ということを、例えば夏合宿の際にテーマが思いっきり変わったとしても肝に銘じていきたいと思う。