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◆映画『マン・オン・ワイヤー』批評文◆

 全員で共通のものについて考えるひとつの機会として、長谷川ゼミでは映画鑑賞を行いました。
 この批評文はその後、それぞれによってホームページに載せることを前提に書かれたものです。
 (マン・オン・ワイヤー公式HPは こちら

◇映画『MAN ON WIRE』◇

書き手:ゼミ長

 5万人の勤務者と1日20万人の来館者のあるニューヨーク最大の商業オフィス、そしてマンハッタンのシンボル、ワールドトレードセンターツインタワー。これを綱渡りの支柱だと考えた人が世の中にどれだけいることだろう。地上411mの芸術。綱渡りに魅せられたひとりの男が、1974年ニューヨークのワールドトレードセンターのツインタワーの間で綱渡りを行なった。一方から一方の間に渡した綱を渡る“綱渡り”というシンプルな軽業を人びとに芸術だと言わしめたのは、フィリップ・プティしかいないだろう。この命がけのパフォーマンスを行なうために費やされた時間と情熱、そして彼と共にツインタワーで奇跡を起こした知られざる魅力的な友人達を、当時の映像や再現映像そしてインタビューを交えて紹介したドキュメンタリーが、映画『MAN ON WIRE』だ。
 16歳から独学で綱渡りを始めたプティは、ノートルダム寺院など様々な場所での綱渡りを成功させていた。そんなプティにとって、ツインタワー建設中の新聞記事は大きな衝撃を与えたことだろう。世界で一番高いビルで綱渡りをしたい。命綱なしのワイヤーで空中を渡ることも芸術的だが、それを可能にする綱の設営を成功させるに至までが大きな問題であった。逮捕されると知りながらプティの夢に協力し支える者達。また、途中で裏切っていく者達。全てがまるで物語の中のことのようだが、ツインタワーを渡ってから30年経った今でもインタビューで振り返る彼等を見るとそれはなお色褪せない冒険だということがわかるだろう。45分間のパフォーマンスでNYを感動させた男、フィリップ・プティ。発案から計画、数多の過程を経て自身の夢を達成させた後、誰もが彼に聞いたなぜそんなことをしたのかという問いに、彼は答える。「理由はない」。もしこれが、WTCが発案した広告事業の一環だったとしたら、映画にもならなかっただろう。庭先でNYのツインタワーを渡る練習をするプティと小さな部屋で身を寄せ合って計画を練る仲間達。それは誰もが憧れる充実した青春の時にも似ている。空中ではひとりのプティだが、彼を取り巻く仲間の回想や当時の警察官の貴重な映像が、彼の綱渡りが芸術とまで言われる成功に導いた過程と、その成功の果てに何があったのかを語る。不可能だと思うぎりぎりのものに挑戦していくのは、誰のためでもなく、何のためでもなく、ただ自分の理由なき夢のために。だからこそ、陰鬱とした時代に突如として現れた綱渡りの男の空中で恭しく礼をする様に人びとは胸を熱くした。トレードセンターと言えば、9.11の同時多発テロが記憶に新しい。しかしこの映画では、ビルが建設されていくように、ひとりの男が綱渡りへの夢を建立することで誰も傷つけず一夜にしてNYを湧かせたのだ。

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◇プティの歩いたエッジ◇

書き手:スケジュール管理(マネージャー)

 一人の男がニューヨークの空を歩いた。そのパフォーマンスは、美しい犯罪とも、アートとも言われた。彼が歩いたエッジは何だったのか。あの時、ワイヤーが渡されていたのはビルだけだったのか。
 『マン・オン・ワイヤー』は、綱渡りをする男のドキュメンタリー映画だ。1974年、出来立てほやほやのニューヨーク、ワールドトレードセンターに綱を渡し、大道芸人フィリップ・プティは多くの仲間の協力を得、地上411mの高さを歩いた。映画は、このプティの夢をかなえたプロジェクトを軸に、ツインタワー建設の様子、その前後を当時の映像と写真、再現映像、そしてプティと、彼の綱渡りに関わった人たちのインタビューなどを組み合わせ描かれている。スクリーンに映し出される映像、音楽、インタビューは一つのシーンについて多くを語ってくれる。時間軸は交叉し、映像の種類、話し手がころころと変わり、コミカルな場面、スリリングな場面と盛りだくさんで、映画が一つの曲芸のようにも見える。当時を振り返るプティら同様、映画全体がとても雄弁なのである。しかし、そんな中で一つだけ語られないことがある。プティが渡ったツインタワーが今はもう無いということ、2001年に起きたテロのことだ。
 監督は敢えて、9.11テロのことについて触れなかったのだという1。しかし、観客の目にはスクリーンで熱をこめて語られる「プティが綱渡りをしたこと」という事実とは違う、もう一つの事実を同時に捉えてしまうはずである。映画で、描かれる事実だけには注目できないイメージがあのビルにはついてしまっている。勿論、プティがツインタワーでやってのけた綱渡りは何から何まで衝撃的な事実である。その発想も、実現までの道のりも、集まってきた仲間たちも。一人の思いつきから始まったことに多くの人が関わっていることも全てが常識逸していて、それがとても芸術的だ。しかし、それだけを捉えられない、2001年の出来事が彼の偉業をさらに大きなこととして映し出しているのではないだろうか。劇中に組み込まれていた、当時の人々がプティを英雄扱いし、彼のパフォーマンスをアートとして持てはやした感覚と、私たちとではズレがある。プロジェクト自体が「犯罪」であるため、またプティと仲間との仲が悪くなったためということではなく、建物が無いために、二度と実演不可能なものとしてのパフォーマンス。そのことが、ことの大きさを更に大きくしている部分はないだろうかと考えてしまう。
 彼が歩いたエッジはなんだったのか。彼の人生を一変させるものだったのか、時代の雰囲気を明るくするものだったのか。それとも二度と歩けなくなる場所という意味での綱渡りだったのか。何も語られていないが、いくつものエッジが重なっているように思えてならない。


【参考資料】
1.マン・オン・ワイヤーHP http://www.espace-sarou.co.jp/manonwire/
2.『綱渡りの男』小峰書店(2005年) モーディカイ・ガースティン作/絵 川本三郎/訳

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◇『綱渡りに込められた価値』◇

書き手:ヘルプデスク(書記)

 ワールドトレードセンターの間を綱渡りで渡る。その衝撃は、綱渡りの舞台が当時の世界一高いビルだからという理由だけには留まらないだろう。その行動は、プティにとってそれが何にも換えがたい価値のあるものだということ、どんな手を使ってでも実現させる価値のあるものだということを物語っている。
 フィリップ・プティはまだ興奮冷めやらずといった様子で当時の心境を語る。仲間たちも含め、30年以上の時を経ていることを感じさせないほどの記憶の鮮明さに、この綱渡りが彼らの人生にとってとてつもなく大きな出来事であったことが表れている。
 実際の綱渡りのシーンは、この人は落ちない、死なないとわかっていながらハラハラドキドキしてしまう。ビルの高さとその行動が一致しなくて、胸騒ぎを覚える。しかし、笑顔で綱渡りをする彼の姿を見ているうちにドキドキ感は薄れていき、ただただ、そのパフォーマンスに魅せられてしまう。パフォーマンス、というのは言葉が合わないかもしれない。彼はワイヤーの上を満喫している、その瞬間は自分のためのものだ。誰のためにやっているわけではない。このときの彼はただ、高さ441メートルの場所で綱渡りをすることの喜びに浸り切っている。高層ビルの中にひとり立つ彼はまるで世界を手に入れているかのようだった。
 プティが綱渡りを成功させるまでのプロセスは、プティ本人やその仲間たちが語るエピソードとその再現映像で描かれており、練習風景や逮捕劇を含めワールドトレードセンターの綱渡りは実際の映像が使われている。実際の映像はその色合いや音なども含め当時の状態を伝えている。特にプティの綱渡りは実際の映像以外、他の誰にも真似できないであろう。白黒の再現映像は緊迫感が漂うように、という意図が込められているそうだが、それよりも、プティやその仲間たちが見せてくれる顔の表情や声の抑揚、その動きのほうがそのときの様子をリアルに伝えてくれている。話し方も人により様々で同じ話なのに色々な視点でみることができよう。ワールドトレードセンターでの綱渡りという夢のもと、強い絆で結ばれた彼らの関係がこのときにしか成り立たなかったことも思い知らされる。情熱に身を任せるという表現が合うだろうか、そのときの彼らはひとつの目標に向かいまさに夢のためだけに生きていた。だからこそ、この綱渡りプロジェクトの成功が彼らの関係をそれ以上成り立たなくさせてしまう。その崩れてしまった関係も、綱渡りの成功のために必要な犠牲だったように感じられる。
 犯罪芸術と呼ばれるように犯罪行為であったプティとその仲間たちの記録からは、そうまでしてでもやらなければいけないのだという価値が感じられる。当時のNYの人々が頭上高く現れた綱渡りを成功させたプティの姿に感動したのは、理由はなくともそれがプティやその仲間たちにとって価値があるものだったからにほかならないであろう。

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◇「ツインタワーを綱で渡る」こと◇

書き手:レクリエーション係

 物事にはそれがあるべき場所がある。電車は線路の上にあるものだし、黒板は教室のなかにあるべきものであるように。しかしそれはいつ、どのようにして決められたものなのだろうか。テレビはリビングにあるべきものであって、玄関におくものではないと誰もが常識的に思っている。
 映画『MAN ON WIRE』はワールドトレードセンターを綱渡りする男とその仲間のドキュメンタリー映画である。綱渡りをしたフィリップ・プティをはじめ、関わった仲間のインタビューと若いころに撮ったフィルム、再現映像で当時の様子を振り返っている。実際にワールドトレードセンターに忍び込み、綱をはり、45分間に及ぶパフォーマンスはニューヨークの街に衝撃を与えた。綱から降りたプティは、待ち構えていた警察に逮捕される。しかし、なぜ彼は逮捕されたのか。犯罪者扱いされる反面、多くのひとを感動させた。なぜ人々は感動したのか。「綱渡りをする男」に世界中がゆれるのはなぜなのだろうか。
 プティは大道芸人である。ジャグリングや綱渡りを披露するのが彼の仕事だ。2本の離れた木に綱をくくりつけてその間を歩く。それをはらはらしながら観客は見ている。しかし、木の間を綱渡りしただけでは逮捕はされない。「ワールドトレードセンターの間を綱渡りした」ことが犯罪であるということである。なぜ木がビルになっただけで注目を集めるのか。それは、高層ビルの屋上で綱渡りをするということは非常識、ありえないことだと思われているからだ。「綱渡り」という行為は、本来ビルを使って行われることではないのだ。もし綱渡りがビルで行われていることが日常的であったら、逮捕などされないし、皆の注意を引かない。そもそもプティがやろうとは思わなかっただろう。「綱渡り」を「ワールドトレードセンター」でやることに意味があるのだ。
 ではこれがマンションとマンションの間で行われたらどうだろうか。すごいことではあるが、映画や絵本にはならなかっただろう。それが普通のなんでもないビルではなく、「ワールドトレードセンター」で行われたということはどういうことなのか。プティがこのプロジェクトを実行したのは1974年。ワールドトレードセンターが出来た次の年である。第2次世界大戦後、アメリカがもっとも豊かな時にこのビルの建設計画は生まれた。着工から6年の歳月をかけて、ツインタワーはニューヨーク一高いビルとして姿を現した。しかし当然のごとく、プロジェクトの大きさに批判の声や反対派の意見が集中した。その話題の渦中にあったツインタワーの間を、プティは綱でつなぎ、渡ったのである。
 サーカスで行われるはずの綱渡りがとつぜん、ワールドトレードセンターの間にあらわれる。そこにあるはずのないもの、起こるはずのないことが、目の前で起こっている事実に、ひとは動かされたのだ。そこに必要なのは、そこでは起こるはずがないという人間の中にある常識や不可能であると思っている気持である。それが「綱渡りをする男」を犯罪者、さらにはスターにし、「綱渡り」を芸術にしたのではないだろうか。


【参考文献】
1・世界貿易センタービル アンガス・K・ギレスピー著 秦隆司訳 2002年初版
2・The man who walked between the towers Mordicai Gerstein 2003年

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◇『共犯者のまなざし』◇

書き手:会計係

 「史上、最も美しい犯罪」で知られるフィリップ・プティには、共犯者がいた。目に涙さえ浮かべて、すでに過ぎ去った奇跡の瞬間を語る彼の仲間たちは、今でも、その美しさに呪いをかけられている。
 フィリップがその地上411メートルの空に架けられた綱へ足を一歩踏み出したとき、心に静寂が訪れた。通常、綱渡りという見世物が、こんな風にして人の心に触れることは、まずない。人は、どれだけのリスクのもと、どれだけ困難な技をこなすことができるのかに、その価値を求めるだろう。興味は、スリリングな試み、それに尽きる。しかし彼の綱渡りは違った。
 「僕は空では恐れを感じない。」そう語るフィリップから感じ取れる、自身の行いに対する誇りや潔さ。ただ前進することだけを考えているような、無垢でどこかストイックな彼の性格がにじみ出る。彼にとっての綱渡りは、人生そのものだ。綱の上で恐れを感じるのなら、それは後悔である。恐れを感じた瞬間に、彼はその行いの意味を失う。ただただ、すさまじい集中力をもって、綱渡りをやり遂げるしかないのだ。自分の人生を、自分の命をかけて体現した彼は、人間離れした美しさを放っていた。
 ニューヨークのワールド・トレード・センターのツインタワー。この間で綱渡りを行うには、2点「不可能」である理由があった。ひとつは、綱渡りを決行する張本人、フィリップの技術面、精神面での問題。「空間が人間を圧倒する。」場数を踏んでいる彼ですら経験したことのないような、世界一の高さを誇る超高層ビルだ。無事成し遂げるには覚悟が必要である。そしてもうひとつは、その場所にワイヤーを張れるかという現実的な問題である。物理的条件はどうか。警備の目をどう欺くか。そこでフィリップに必要だったのは、この計画に賛同してくれる、信頼できる仲間たちだったのである。彼らの存在はとても大きい。
 このドキュメンタリー映画のメインとなる軸は、フィリップを始め、計画に参加したものたちへのインタビューである。世間ではあまり知られなかった「共犯者たち」に、フィリップ同様スポットライトが当てられたのだ。目を輝かせて、この計画がいかに困難で、素晴らしいものであったかを夢中で語る彼ら。その誇らしげでエネルギッシュな様子は、まるでフィリップの分身だ。途中、綱渡りの練習の記録映像として、彼と、彼の賛同者であり恋人であったアニー・アリックスが、重なり合うようにして2人でワイヤーの上を歩く様子が映し出されるシーンは印象的である。アニーだけでなく、ジャン=ルイやジャン=フランソワ、バリー=グリーンハウスらも、フィリップと一心同体となって計画を押し進めていったことだろう。
 しかし、実際にツインタワーの間を渡るのは、フィリップ1人であり、それが最終目的である。計画が後半へさしかかるにつれ、仲間の心とフィリップの心は違う方向を向き始めた。仲間たちは、フィリップの身を案じている。ある者は慎重さに欠けると意義を唱え、ある者はフィリップの精神面での支えに尽くす。そしてある者は責任の重さに耐えられなくなり、チームから抜けていく。そんななか、フィリップはただ一人、綱を渡りきるという自身の行為そのものへと集中していった。ツインタワーへの潜入の向こうの、無事ワイヤーを張り終えた後の、まさに自分が綱へと足を踏み出すその瞬間に向けて、覚悟を固めていったようだった。
 決行当日。最悪の条件のなか、意を決して綱へと歩を進め始めたフィリップが、にわかに笑みを浮かべた。そこから約45分間、仲間たちは彼の夢のようなパフォーマンスに見入り、感動を覚えながら、同時に彼がもう手の届かない世界へと飛び立っていってしまったことを確信したに違いない。「輝いた人生は終わったの。わたしたちは、別の人生を歩み始めた。」作戦成功後、一気にその名を世界に知らしめたフィリップとは対照的に、アメリカから国外退去を命じられたジャン=フランソワや、フィリップから離れていったアニーを思うと、なんともやるせない気持ちになる。
 フィリップだけがいまだに、あのツインタワーの綱の上で、自分の運命に挑み続けているかのような勢いを見せる。現在も、ツインタワーへの挑戦と何ひとつ変わらない誠実さをもって、人々へ発信し続けている。そんな彼と比べると、過ぎ去った瞬間の美しさを思い涙する仲間たちは、過去に閉じ込められているような哀愁を感じさせる。しかし、もう二度と供に目標を達成できることはなくとも、彼らにはただひとつ、フィリップとの共通点がある。それは誰一人、後悔などしていないことだ。この計画に協力した誰もが、フィリップが綱渡りによって体現した人生そのものへの姿勢を、瞳の奥に焼き付けている。「友情は壊れた。でも、やり遂げたんだ。」彼らのそのまなざしは、フィリップが空にかかった綱の上へ、一歩踏み出したときと同じ強さをたたえていた。

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◇「静の綱渡り」◇

書き手:合宿係

 アカデミー賞最優秀長編ドキュメンタリー賞を受賞の他、全世界の映画賞でも数多くの賞を受賞したドキュメンタリー映画『マン・オン・ワイヤー』。当時「史上、もっとも美しい犯罪」と呼ばれたフィリップ・プティの挑戦を描いた作品だ。
 運命の日から6年前、フィリップは歯医者で偶然見た記事を見て直感的にワールドトレードセンターのふたつの屋上に線を引いた。1971年から違法行為となる綱渡りへの挑戦を続けていたフィリップの夢がその時生まれたのだ。フィリップはこの挑戦を「死が近づいている」と最期の綱渡りになる事を運命の様に受け入れ、また仲間達は作戦の成功とフィリップの命の為に、精密そして大胆な作戦を計画していく。そして1974年8月7日、たくさんの人々が遥か下から見守る中フィリップは一歩を踏み出した。
 フィリップ、そして仲間である共犯者である友人ジャン=ルイ、そして恋人アニーのインタビュー映像を随所に交えて当時の様子を話す構成はドキュメンタリーの形そのものであるが、フィリップ達の表情や声はまるで子供たちの悪巧みの様にとても高揚感に溢れている。まるで時間があのワールドトレードセンターの時から止まってしまっているかの様に、そしてあの8月7日に全ての青春を置いてきたかのように語る。
 映画の始まりと同時にエリック・サティの「ジムノペディ」が流れてくる。劇中にはフィリップ自らの希望でマイケル・ナイマンの楽曲が使用されており、これらの音楽の数々は綱渡りという行為がいかに神聖で無垢で、そして自由で孤独な行為かを表す、繊細な旋律を映画に添えている。「ジムノペディ」は、フィリップと恋人アニーが別れる、という見るものに少なからず衝撃を与えるだろうラストにも流れてくる。この「ジムノペディ」やマイケルの楽曲が作品全体を覆う雰囲気は、どこまでも「静」だ。綱渡りと言えば、サーカスでの華やかなライトや歓声そして軽快な音楽がつきものの「動」の行為であるが、その様な音楽はこの映画では全く使用されていない。フィリップはいつも綱渡りの際にマイケル・ナイマンの楽曲を流していたというくらい、彼の楽曲を愛していた。子供の様に権力に反抗し様々な破天荒な行動を取っていたフィリップの繊細な部分が、こういった部分によく表れているのである。
 堂々と違法行為をするのはフィリップの綱渡りが始まってから、でなくてはならない。よって準備は夜など人目につかぬ様に細心の注意をはらう。映画はこの準備のシーンに多くの時間が使われていた。必然的に画面は暗くなり、日の元に出られるのは今か今かと焦れるフィリップと観客の気持ちがシンクロするようだ。実際のワールドトレードセンターでの綱渡りのシーンは映画の中では本当に終盤である。なにせ準備だけでも8カ月の時間をかけているのだ。綱渡りの高揚感やスリルを味わいに劇場へと来た観客にとっては物足りなかった時間が続いたかもしれないが、この映画はあくまでワイヤーの上で自由になる男の軌跡を描いたに過ぎず、先ほど書いた陽気な音楽やスリルなどに触れただけで興奮する次元とは全く違う。運命の8月7日、フィリップの表情そして身体はツインタワーを結ぶワイヤーの上という誰にも触れる事の出来ない領域でこれ以上ない程幸せに満ちていた。警察なども駆けつけ、多くの人々がフィリップを見つめる。一度地上に降りれば、もう彼を誰も構わずにはいてくれないだろう、フィリップはまさしく「人生のエッジ」を自分の足で踏みしめているのだ。
 インタビューでは常に綱渡りとフィリップに関する話がほとんどで、彼らの人間関係については深く掘り下げられる事はなかった。そこに重点を置く映画ではないとは重々承知であるが、やはり最後のフィリップとアニーの別れを最後にあっさりと告げられると腑に落ちない感情を抱く。結束や仲間としての意識よりも他の、人間同士の結びつきが希薄だという印象を感じる終わり方だった様に思う。しかし逆にいえば、フィリップも仲間達もワイヤーを通して成り立つ関係というこの上ない信頼が築かれているのだ。目的が昇華されれば、勿論繋がりの意味はなくなる。そういった幕切れを意識させる、ラストであった。
 誰もがフィリップの行為を美しいと崇め、肯定しているので一種の暗示でもかけられている錯覚を覚えた。非常にメッセージ性が強く見た者に有無を言わせない力を持った映画であることは間違いない。それほどまでに、フィリップ・プティという人物は魅力に富んでいて見た者を離すことがない、その力が映画そのものにも表れている。

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◇映画『MAN ON WIRE』◇

書き手:合宿係(ディズニー担当)

 「史上、もっとも美しい犯罪」、『MAN ON WIRE』は「犯罪者」を描いたドキュメンタリー映画である。しかし映画の内容もパンフレットでも何処にも彼の「犯罪」を否定する言葉は殆ど出てこない。全体を見て感じたことも彼の英雄伝のような話であった。しかしこれは実際にあった「犯罪」であったのだ。本来「犯罪者」を描くドキュメンタリーの話でここまで英雄の扱いを受けた犯罪者がいただろうか。私は余りドキュメンタリーを見ないので詳しくは分からないが、これまでに見たドキュメンタリーでは余りこのような扱いを受ける犯罪者のドキュメンタリーはなかったように感じる。では何故このような映画を製作したのだろか。
 この映画『MAN ON WIRE』は今では世界的にも有名なビル、ワールドトレードセンターを綱渡りする男と彼に強力した仲間のドキュメンタリー映画である。綱渡りをしたのはフィリップ・プティ一人であった。フィリップを始めとした関わった仲間達の当時の映像やインタビュー、再現映像、を交互に組み込み当時の様子や状況を順序だてて分かりやすく見られるようにしている。そして何よりもこの映画全体を際立たせているものが411m上の奇跡の光景であった。ニューヨークの街に大きな衝撃を上げた45分間に及ぶパフォーマンスは、まるで永遠の出来事のような、それでいて終ってしまえば一瞬の奇跡だったかのような錯覚に陥れた事だろう。かつてこれほどまでに大勢の人を一斉に真剣に一点に集中させた45分間があったのだろうか。彼は犯罪を犯すと同時にこれまでにない世界の揺るがし方をやってのけたのだ。だからこそこの45分間の出来事を映画にする意味があったのではないだろうか。これまでにも、そして恐らくこれからも起きることはないであろう究極の犯罪の軌跡を、当時の映像と本人の声を使う事で、当時体験していない者には信じられないこの行為を信じ驚愕させる事に成功している。それはまるで劇場で二度目の犯罪が起きているような錯覚に陥るような構成だった。映像中はBGMも少なく、音が全く無い場面もある。ありえないような光景の奇跡を劇場で起こすには、このBGMが多大な影響を与えている。映像による驚きと音楽によって伝わる緊迫感や心情、そしてその映像が流れるまでにある本人の語り、このどれかが欠けても、二度目の犯罪は起きなかっただろう。この映画は三次元の犯罪を二次元に興すことに成功させたと言える。
 「ツインタワーの間を綱渡りした男が逮捕された」これだけ聞けばちょっと驚く犯罪者の話、で終ってしまうが、彼の軌跡を表現する事でこの映画の意味は大きく変化している。一見派手な行動の裏に隠された人間関係や心情、「ツインタワー」での決行の意味や重大さは映画を見るものの心に深く突き刺さる部分が随所に存在している。特に現在ツインタワーと聞けば誰もが想像出来るビルであり、その映画となれば気になる人も多いだろう。皮肉な事かもしれないが、今でも誰もが頭を過ぎるツインタワー事件の影響もあり、この二度目の犯罪芸術は多くの人に影響を与える事が出来たのかもしれない。彼は当時様々な問題を抱えたツインタワーと人々の間を彼は綱渡りをする事で繋いだ。そして今回この映画によって今や無残な姿が記憶に残るビルの過去の奇跡は、当時の状況や問題そして現在の問題へとも繋ぐ綱渡りをしてのけたのである。まるでテロのように突然起きた彼の犯罪は、それでいて私達の記憶にあるテロとは大きく違う、幸せなテロであったのかもしれない。

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◇「MAN ON WIRE」批評◇

書き手:レポート回収係

 「少年よ、大志を抱け」、そう述べた人はクラーク博士だったろうか。博士の影響ではないけれど、若者は大きな夢や希望を持たなければならないのだとそう思わされてきて、持たざる者、持つ勇気のない者は若者失格くらいに思ってきた。「MAN ON WIRE」を見ながら、とてつもなく大きな目標に向かっていく若者たちの姿、そして当時のことを語る現在のフィリップを通して、勇気づけられ、明日に希望を持ちかけた気持ちは、しかし映画の終局と同時にしぼんでいった。一見無謀に見える夢も努力すれば叶うのだと、希望の光を照らしてくれる映画ではない。決してハッピーエンドではない。注目すべきは彼の栄光ではなく、栄光を手にしたその後ではないのだろうか。夢や目標を達成してしまった時、それがあまりにも壮大であった時、人はどうなっていくのだろうか。何を失うのか。そんなことを考えさせる、かなり含みを持たせた映画である。夢とやらを引き換えに人は何を失うのかをきちんと提示している。決して、「でっかいことやってやろうぜ、若者よ!」という賛歌にはなっていない。
 この映画について書かれた、犯罪映画という一言を見たときに、私はとても驚いた。そうかこれは犯罪なのだ。世界一高いビルに綱をかけて渡ってはいけない。別に世界一高くなくてもよい。例えそれが横浜ランドマークタワークラスでも犯罪だ。しかし、人々に勇気を与える犯罪、感動を覚えさせる犯罪っていったい何なのだろうか。フィリップの罪は不法侵入と治安紊乱行為であった。しかし、セントラルパークで子供たちに向けてのジャグリング披露を条件に容疑は撤回された。そして、彼はワールド・トレード・センターの展望デッキへいつでも行ける永久許可証を手に入れた。大岡裁きだ。社会の寛容さに、世の中捨てたものではないと思うと同時に、犯罪とは何なのだろうかということを考えさせられる。
 再現VTRや写真、当時の映像、現在のインタビュー映像が入り混じる構成は、私の持っていたドキュメンタリーというもののイメージを変えた。ここまで作りこんでもなおドキュメンタリーと言えるのか、と。ありのまま撮れないものは作って撮る。フィリップの生い立ちや綱渡りを成功させるまでの過程は再現映像や写真、当時の映像が混在する。だんだん映画の「内容」に心を盗られ、今見ているものが当時の映像なのか、ドラマなのか、今回撮られたものなのか分からなくなり、気にもしなくなり、私はドキュメンタリーを見ていたのか何なのか、不思議な気持ちにさせる。
 ドキュメンタリーはグレーゾーンの塊である。そんな言葉をふと思い出す。


【参考文献】
1・MAN ON WIREパンフレット

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◇「それぞれの綱渡り」◇

書き手:鍵係

 自分の思うままに、地上400m以上を歩くフィリップ・プティは、まるで何かのヒーローのようだ。彼は、お話の主人公になれる人、勇気があって努力もするスター性のある人、もちろんこの映画の中心の人。この物語だって、彼がいなければ始まりもしない。でも、私が引っかかったのはその張本人ではなくて、ジャン・ルイやフランソワなどの、親しい友人たちのほうだ。ふわふわと夢を追いかけて宙を歩くスーパーマンを、現実の地平にとどめる役目を、実際にも映画の中でもあの友人たちは果たしていたように思う。ただの成功の物語ではなくて、見終えた後に素晴らしいというだけではない気持ちが残ったのもそのせいかもしれない。
 物語は、インタビューと再現の映像、当時の実際の映像を混ぜて、ワールド・トレード・センターを綱渡るまでの道のりをテンポよく進んでいく。しかし、話が進むにつれて、最初のわくわくする雰囲気だけではなくなっていく。計画の実現の難しさや、死や罪やいろんな不安が友人たちの頭をよぎる。もし失敗したらプティは死ぬ。もしかしたら自殺幇助になるかもしれない。成功したって自分も罪に問われる。友人として協力すべきなのか否か。彼らはきっと初めから、正しいとか間違いの二元論の届かない場所にいるのだろうけれども、世の中には法律というものがあるし、綱渡りには死というものが付きまとう。いくら本人が気にしなくても、それらは実際に逃れようのないことで、“普通”はそういうものさしでものを見るものだ。こうして現実の問題を示すことで、プティ一人の英雄伝説でない、人間味を帯びた話となっていた。
 そして綱渡りは実行され、見事に成功する。しかし、それだけではこの物語は終わらない。私の中では、準備期間のわくわく感や決行中のスリル、成功の感動は、その後みんながばらばらになっていく様にすべてさらわれた。どんなに一致団結しても、やっぱりひとりひとりなんだと、ひとつじゃないんだと、一気に現実に引き戻された気がした。でもだからこそ、本気でひとつのことに思いを馳せれることが、本当にすごいことですてきなことだとも思えた。張本人でなかった人たちは、きっと自分のためでも、プティのためでもなく行動したのではないかという気がする。綱渡りをするのに理由はない、とプティは言っていたけれど、みんなもそれと同じ気持ちだったのではないだろうか。
 自分が輝きたいのでもなく恩に着せるわけじゃなく、自分の思うままに行動したのだろう。自らのリスクも省みなかった彼らも、間違いなく人生のエッヂを歩いていた。


 いくら人生はエッヂを歩くべきだとはいっても、そんなに端っこを歩かなくてもいいんじゃないか、と思ってしまう私はきっと、プティのようにはなれない。それならせめて、あの友人たちのように地に足の着いた場所ででも、少しでも際のところを歩けるような力を持ちたいと思った。

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◇「MAN ON WIRE」批評◇

書き手:コンセルジュ

 今は無きニューヨークの世界貿易センターのツインタワーに、一本のロープを張りわたった男がいる。それがフィリップ・プティだ。彼と彼の仲間達が起こした「最も美しい犯罪」を再現したドキュメンタリー映画である。
 1974年、当時フィリップ・プティは24歳の青年であった。彼は様々綱渡りに挑戦していた。彼には一つの夢があった。あのツインタワーの間を綱渡りしたいと。普通そんな事を言えばただの冗談と流されるであろう。しかし彼は冗談ではなかった。そのために8ヶ月という歳月を費やし、実際にやり遂げたのだ。この映画ではフィリップとその仲間達が綿密な計画を立てるところ、またその時の仲違いや、計画を実行した時の事など細かく本人達が証言していた。特に実行のシーンはプティの解説を交えての、実際の写真と映像を使っていたので、よりスリルが味わえた。またそれだけじゃなく、時間軸をコロコロ変えフィリップのやってきたことから計画までを振り返る形にしたのは、まるで走馬灯のような感覚が味わえるいい演出になっていた。
 彼は何故こんな事をしたのだろう。そんな事をたずねるのは無粋である。彼も言い放った。理由は無いのである。誰にだってやりたい事が一つや二つはあるだろう。しかしそれを出来ないでいるのは何故だろうか。それは我々が色んなものに縛られているからである。法律や周りの目などの「社会」という枠組みの中で生きていく上で、それは無くてはならないもので、それに従って生きていくしかない。だから自分のやりたい事となると、どうしてもその中で選ばなくてはならず、やはり限られた中の自由となってしまう。しかし今回のフィリップがやった行動は違う。ロープ一本の上という本当に限られた空間だが、彼は本当に自由だった。あの上では法律もなく誰一人フィリップを捕まえることは出来なかった。誰の目も気にすることなく地上から411メートルの上で45分間を過ごした。この空間と時間は何にも変える事は出来ないものとなったであろう。
 この行動で彼は英雄へと持ち上げられた。このロックンロールのようなやり方に憧れるのは仕方ないと。しかし彼の行動が全部正しいと言うのはどうだろう。彼のやった行為は紛れも無く犯罪であり、人に迷惑をかけた行為である。また彼の仲間のことが不憫でならない。彼らの行動はある意味フィリップよりもすばらしいものである。彼らはフィリップの中に夢を見て、その夢をフィリップに託した。しかしその「信じきる」という行為は、誰にでもできるわけではない。自分が犯罪者に加担する、しかし得るものは何も無い。ただ夢を見たいだけで、ここまで付き合えるものだろうか。途中で計画を降りた仲間がいたが、あれが普通の反応だ。しかしそれをしなかった彼らもまた英雄なのではなかろうか。
 この芸術犯罪がフィリップ一人だけのものではない。フィリップは一人だとこの犯罪は成立しなかった。フィリップに夢を見た、私達と同じ立場の人達の事を忘れないでほしい。

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◇『マン・オン・ワイヤー』を観て◇

書き手:HP作成班

 『マン・オン・ワイヤー』という映画について、私は事前に二つの情報を持っていた。ひとつはドキュメンタリーの作品であること。そしてもうひとつはビルの間を綱渡りするという題材を扱ったものだということである。これらは本当にチラシを一瞥しただけでわかるような基礎的な情報であり、そういう意味では私は何も知らないに等しい状態だった。しかし劇場が暗くなり、映画が始まってすぐに私は少し戸惑ってしまった。緊迫感のある再現シーン、人物たちの真剣な表情、次々に飛来するどこか胸騒ぎのする言葉の数々。「これは何の映画だっけ……?」思わずそう考えて、私は自分が先述した少ない情報からも、おぼろげに映画の内容の想像をしていたことに気がついた。始まってからの十分ほど、私は必死に字幕を追いつつなかなか映画に入り込むことが出来なかった。『マン・オン・ワイヤー』の導入部はそれほどに私の想像をはるかに超えて、いきなり華麗でスリリングに展開されたからである。
 「娯楽作品より高尚だけど淡々としていて少し退屈そう」、平たく言えばそれが私のドキュメンタリー映画に対して抱いているイメージであった。人々が映画に求めるもの――それは一概に言うことはできないが、娯楽性をもったショーとしての需要が大いにあることは否定するべくもないだろう。その上でドキュメンタリー映画の印象は、完全なフィクション映画に比べて必然的に地味なものにならざるを得ない。『マン・オン・ワイヤー』はそれをいい意味で裏切ってくれた作品と言える。
 スクリーン越しに事件を回想して私たちにささやきかける人物たち。ドキュメンタリーであるからには彼らの証言は脚色があるにせよ事実に基づいているはずだ。しかし何もかもがあまりに詩的でおとぎ話のように見えてしまうのは、中心人物である綱渡り師のフィリップ・プティ氏の魅力によるところが大きい。彼はまるで無邪気に、時には子供のようにはしゃぎながら事件を語る。世界貿易センタービルのツインタワーの間を綱渡りするなんて、正気の沙汰ではない。正直ひどい酔っ払いか自殺志願者がやることとしか思えない。「命を圧倒的危険にさらしてまで何故そんな無意味なことをするのか?」とはおそらく映画を見に来た全員が抱いた疑問であろう。そのように彼のやったことに興味はあっても共感できる人などいなかったはずである。だが映画はその疑問にあえて明確な答えを示さず、観客を翻弄するようにゆるやかなカーブを描きながら少しずつ登場人物たちに迫っていく。彼らに向けられる視線はあまりに優しく、一つ一つの言葉に耳を傾けるような姿勢は柔らかい。そしてそのうちにばかげているとしか思えなかったフィリップの衝動が、不思議と胸にすとんとおちてくる瞬間が訪れるのである。たかが綱渡り、されど綱渡り。フィリップの綱渡りは彼と、その仲間たちの生きざまであった。「死と隣り合わせ」の場所で「詩人として美を極める」超人的な集中力。「理由がないから素晴しい」、その言葉には思わずはっとさせられてしまう。フィリップが綱渡りを成功させたことで、彼らの何かは固く結ばれたうちに幻のように消えてしまう。全てがおとぎ話のようだったのに、ハッピーエンドでもバットエンドでもない、クライマックスの後も続いてしまう“普通”の毎日。しかしそれでも事件を語る登場人物たちはとても生き生きして見えた。あれは彼らの誇りなのだ。漠然としている上に感傷的な意見であることは認めるが、世界は美しいんだ、何だかそう思えてしまう作品であった。

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◇中空を見つめる人々◇

書き手:HP作成班(ブログ管理人)

 今は無きワールド・トレード・センターのツインタワーに渡されたワイヤーの上を歩いたフィリップ・プティ。彼はその「犯行」により警察に捕まってしまうが、「曲芸」を目撃した観衆からの支持を受け、釈放される。しかし、史上最も美しい犯罪の共犯者たちのその後は、明るくはなかった。私にはそう見えた。プティの情熱に惹かれ、プティを支え続けた一つのチームは、プティの成功によって瓦解する。まるで夢の終わりかのように。
 『マン・オン・ワイヤー』は1974年のその事件に至るまでを当事者たちの証言を紡ぎ合わせて現わしていった映画だ。主犯は先にも述べたがフィリップ・プティ。彼は1967年にパリのノートルダム寺院、1973年にシドニーのハーバー・ブリッジで、それが違法であると知りながら綱渡りをした。協力者には幼馴染であるジャン=ルイや、ジャン=フランソワ、恋人のアニー・アリックスなどがいた。
 プティはワールド・トレード・センターの建設当時から、そのツインタワーの間にワイヤーを渡し、その上を歩くことを考えていた。ワールド・トレード・センターは自分のためにこそ建つものだと信じた。誰の考えにも及ばないような無謀な綱渡りをすることに、彼は「理由なんてない」と答える。俗に言われるような政治的な意図も、群衆を脅かすような意図もない。敢えて言う必要などなかった。ただ、映画の中では「詩人として舞台を美で極める」とプティが言っていたが、それは30年後に言われた言葉であって、当時はもっと言葉では言い表せないものであったのではないかと想像する。
 そんなワールド・トレード・センターでの綱渡りは挫折と緊張と決別、そういった面が色濃く出ている。準備に最後まで直接関わり、ある意味綱渡りの綱を握っていたといえるのはジャン=ルイとジャン=フランソワだけだった。ジャン=ルイなどは特に、映画の中で淡々と事実を述べている冷静な人物に見えるが、ワールド・トレード・センターの綱渡りへの言及では、言葉を詰まらせ、涙するまでだった。彼にとってプティの綱渡りとは幼馴染の「死」と同然なのであった。また、恋人のアニーも、プティとは別々の運命を歩むことになる。
 プティはワールド・トレード・センターの後、「変わった」らしい。さて、映画のパンフレットに掲載されているインタビューには、プティはある質問に対し、こう答えている。
「ワールド・トレード・センターの夢を叶えた後、他に夢を抱くことはできたかと尋ねられる時、僕は「はい」と答えるよ。(中略)あらゆる場所が『マン・オン・ワイヤー』の舞台になった場所と同じくらい重要なんだよ。」
(※INTERVIEW:PHILIPPE PETIT & JAMES MARSHより抜粋)
 本当に、そうだったのだろうか。彼はワールド・トレード・センターの最上階にいつでも行ける無料通行証を手に入れ、また観衆からの歓迎を受けてニューヨークに住み着くようになった。それは一つの到達点というか、安息の地、だったのではないだろうか。彼はもう、綱渡りのワイヤーから降りたように見えた。実際、あれから彼は「違法」な綱渡りを試みることはなかった。だからこそ綱を握り、或いは下で待ちながら彼の命を見つめ続けた仲間たちは今、誰一人プティの傍にいないのだ。
 プティは決して一人で夢を叶えたわけではない。勿論本人も分かっているはずだ。しかし、中空に立ち、歩き、ついには寝転びまでしたその経験とは、プティだけのものだ。二つの塔の間で死、或いは美と渡り合ったのはプティだけなのだ。彼は称賛され、見る者全てを引き込んだ。観衆は地上411mの奇跡を見ていた。しかし、アニーやジャン=ルイ、その他の仲間たちはプティの命を見つめていた。中空で、まさに風が吹けば飛ぶような、プティの命を。
 私には、ワイヤーの上で寝転んだプティが磔にされたキリストのように見えた。その文脈でいえば、彼はあの塔の間に命を置いてきたのだろう。そして彼はあの日を境に、神が起こすような奇跡により変わったのである。全ては憶測だが、プティは夢を叶え、大勢に夢を与えた……それは事実ではあるのだが、彼と、彼の周りの人間の間で、何かが終わった。奇跡は彼を支えた者たちまでは変えなかった。それが、彼らの道を別った。この映画ではそのことを窺い知ることができる。そこで私たちは初めて、ただの観衆の一人ではいられなくなる。


【引用文献】
 『MAN ON WIRE』映画パンフレット(エスパース・サロウ)

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