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◆『アトラクションの日常』を読んだゼミ生の反応◆

 このページは、2009年に出版された我らが長谷川一先生の著書『アトラクションの日常 踊る機械と身体』(河出書房新社)を読み、ゼミ生有志九名が各々の反応を書いてみようと企画したものです。反応の仕方は感想、批評、卒業論文のテーマと絡める、日々の自分に照らしてみる、連想してみるなど様々です。
 それでは、ゼミ生が体験した『アトラクションの日常』の世界へどうぞ行ってらっしゃいませ!
(長谷川一著『アトラクションの日常』の関する情報は こちら から。河出書房新社のサイトです。)

◇『アトラクションの日常』を読む◇

書き手:ヘルプデスク(書記)

 慣れきった普段の生活にも「アトラクション」と呼べるものがいくつもあることに驚かされる。その「アトラクション」に気づくことができるのは日常を生きている自分自身のふるまいにあることを考えると、私はいかに多くのことをあたりまえに受け止めているのかに気づかされる。本書を読んで、普段の自分の行動の大半を無意識的に過ごしているのだということを強く感じた。でも慣れるということはそういうことでもあると思うし、慣れた中ではじめて私は私のふるまいを意識することができるようになるのだと思った。
 私が一番印象に残ったのは、本書で3つ目のアトラクションである「流される」の中に述べられている能動性と受動性が相対的なものであるということだ。ディズニーランドに行ったとき、楽しいと自分が感じているのは誰かにそう思わされているのではないだろうかと怖くなったことを思い出した。あらゆる場所が何をすべきであるかがあらかじめ決められており、私はその通りに行動しているのではないのだろうかと半ば騙されているような感覚をディズニーランド以外でも感じることがあった。二者択一のような考え方をしてしまうのは私の悪い癖である。思わされていることもある一方で、自分で自分の行動を選んでいることも確かであり、それはあくまで能動性と受動性の中間地点にあるのだということに私の中にある極端な考え方を指摘された気がした。すると、この章の最後に述べられている「「流される」ことを引きうけながら身体を取り戻す」(82頁13行目)という言葉の意味がじわじわとしみてくる。なぜかはよくわからないけど日常してしまうことや感じてしまうこと、その自分の行動を受けいれた先に本書で言うアトラクションとなってしまった日常に気づくことができるのだと思った。
 7つ目のアトラクション「くりかえす」の中にもこれと同じことを感じたところがあった。同じ毎日をくりかえすことに倦怠を感じてしまうというところである。本書に述べられているとおり、私も同じことのくりかえしはつまらないと思っている。だから、たまにすごく遠くに行きたくなったり、逆にどこにも行きたくなかったりして、逃げ出したいと思ってしまう。楽しいことがしたいとか、変わりたいとかよく口にしてしまうのは私が自分の日常を引き受けてはいないのだと思い知らされる。日常=毎日同じという考えも、それがつまらないという考えも、機械的な複製のアトラクションに乗っていることを本書は教えてくれる。NTTのCMの「なぜ、イチローは同じ毎日をくりかえしているのに、未来をつくれるのか」というナレーションを思い出した。ここで言われる「毎日」にも「くりかえす」アトラクションを見出すことができると思う。
 私のふるまいは私の日常の中でしか実現されず、私の日常は場所に限らずどこへ行っても存在する。テーマパーク化してしまった日常に気づくためには、まず単調だと思ってしまう毎日を違った捉えかたで生きること、そしてその中で私がどうふるまうか(生きるのか)が大事なのだということを感じた。さて、しんどいけど逃げずに向き合わなくては。


≪引用文献≫
長谷川一著『アトラクションの日常 踊る機械と身体』河出書房新社、2009年

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◇コスプレはアトラクションである。◇

書き手:ゼミ長

 今回ゼミ生の有志でこの本に関連して何か執筆するわけだが、私は自身の卒論で取り扱うコスプレに引きつけて考察させていただいた。だが、その前にシンプルな感想を述べておきたい。
 電車の中でこの本を読み終えた。そして駅から家までの間、二十年とちょっとの自分の人生をぼんやりと振り返っていた。そして同時に、これからの日常を想って、少しだけ涙した。それは感動したとか、そういうことではなくて、きっと自分がこれからもっとまともに現在を見つめていかなければならないと大学四年生の冬を目前にして色々と考えていたからだろう。漠然とした不安を見つめ直すきっかけを提示された私にとって、この本はほんの少しの絶望である。しかし、契機でもある。何度となく読み返すことだろう。
 さて、本題に入ろう。まず、私が卒論で取り上げるコスプレについて簡単に述べておかねばならない。コスプレとは、アニメや漫画、ゲームなどの登場人物に扮装する遊びである。各々自分で衣装を作るなり買うなりして用意し、コスプレをすることのできるイベント会場に行き、参加費を支払い、そこで写真撮影をする。どんな作品、どんな衣装でも「コスプレをする」ということの大枠はこういったかたちである。コスプレをする人々をコスプレイヤーと呼ぶが、彼らは毎週末(イベントのほとんどが週末開催である)日常から逸脱した衣装を着ることで余暇を楽しんでいる。コスプレもまた本書で言う「アトラクション」だといえるだろう。コスプレをする日いちにちの流れを簡単に辿ってみよう。前日までにせっせと用意した衣装やウィッグを鞄につめ、家を出る。普段友人と遊びにいくときと変わらぬ服装だ。電車に乗り目的のイベント会場まで移動する。会場に着いたら受付で参加費を支払い、スタッフに誘導され更衣室に入る。そこで衣装に着替え、化粧をし、キャラクターの姿になって更衣室から出たら準備は万端だ。会場を見渡して、良さそうなロケーションを選び写真を撮る。クローズの時間になれば、また更衣室で着替え、行きと同じ私服で帰途につく。気の合う友人同士なら、アフター(イベント後の交流のこと)にファミレスに行くのもいいだろう。そして、一日が終わって手元に残るものはイベント中に撮った写真であり、それを編集する作業をすればその日のイベントに関してやることはしまいである。
 コスプレをしている人の多くは、学生やフリーターや会社員だ。特別変わっているわけではなく、ただ漫画やゲームなどが常人よりも好きで、「日常からの解放」をコスプレに求めているというだけだ。誰もが思い描く、子供のころに一度は真剣に考えた、好きな作品世界の中に入ってみたいという願望。それこそ映画や漫画でもなければ不可能なことだ(だからこそ、憧れもするけれど)。コスプレはそれを叶える代わりに、衣装や自分のコスプレ写真を手に入れることでその欲望を満たしている。コスプレをしている人びとは、夢がかなったかのような気になる方法のひとつとしてコスプレを選択しているのだ。ここで言う夢は日常からの解放であり、現実にない御伽の世界を夢想することである。撮った写真をコスプレイヤーが重要視するのは、それがその夢のような時間の圧縮であり、写真編集という作業が「消費する」時間を増やすことに繋がっていると考えて問題はないだろう。私服で話すアフターの時間、今度は何の作品のコスプレをしようかなどという話の傍ら、学校のことや仕事の悩み、友人関係の話になる。衣装に身を包んだイベント中にそんな話が出てくることはない。そうこうしているうちにいい時間になってきて、明日は月曜日か、と誰かが洩らす。現実に引き戻されるような気分は、ディズニーランドからの帰り道の気分とほとんど変わらないだろう。本書でいう、ライド系アトラクション― コスプレも一般的な儀礼の構図にしっかりと当てはまるのである。
 コスプレがアトラクションであると考えるひとつの理由としてもう一つ「違和感」をあげておきたい。漠然とした言葉だが、だからこそ見つめなおすにふさわしいのではないだろうか。コスプレの会場についてまず通される場所である更衣室。その中は実はかなり異様な雰囲気である。着替え途中というものに魅力がないわけではない。ただ大きく仕切っただけのフロアに衣装にもくもくと着替える人や、奇抜なメイクを施している最中の人がひしめきあっている。ふと鏡の中の自分と目が合って、我に返る。なにをしているんだったかしら?そう思ってまわりを見渡せばその違和感は更に膨れ上がる。私はこの違和感を、視覚的に変化する過程、つまりコスプレイベントとそれに参加する自分というものにまだ自分を同期しきれていない状態だからこそ起きやすいものだと考えている。それでなくても一つのフロアに大人数で様々な衣装に着替えているというのは、実際かなりの壮観ではあるのだが。「アトラクション」という意味合いにおいて、コスプレはテーマパークと一種似た部分があるが、決定的に違うのはその準備を自分で行うことにある。ディズニーランドなどに代表されるテーマパークが私たちに「夢」を提供しているのに対して、コスプレはとことんセルフだといえるだろう。高額な衣装を購入したり、衣装をつくるのに時間を費やしたりということも、全部自身がやっていることで、準備段階から自身を組み入れているからこそ、前述したような同期される前の違和感を多々見つけ出さずにはいられないのだ。
 ディズニーランドでコスプレは許されていない。完璧な虚構を目指すテーマパークであれば当然であろう。だが、ハロウィンの間だけ特別それが許されている。ゲストからパーティシペイターへ…ディズニーキャラクターに扮装したわたしは果たして何者になるのか。アトラクションにアトラクションした自分が入る。それはどんな「夢」の世界なのだろう。

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◇わたしの日常の断片〜『アトラクションの日常』を読んで〜◇

書き手:合宿係

一、はじめに
 タイトルを読むといかに刺激的で能動的な日常を描き出している事だろうと、思う読者は少なくないだろう。大学1年生の私がもし、『アトラクションの日常』を町の本屋で見かけたら、「あぁ、‘見方を変えれば毎日の生活はこんなに違う’という類の本なのかな」と思うことだろう。その表現は半分正解で半分間違いである。この本の10章にわたる日常の断片は特別なものは何一つ含まれていない。私達の普段の生活ではありきたりすぎて見落としがちな10の断片だ。しかし、その断片が鍵となって私達に語りかけてくると、あまりにも刺激的で目を覚ますような衝撃を与える。
 10の断片から「アトラクション7くりかえす」「アトラクション10夢みる」を中心に、自分の経験に引き付けて書いていきたいと考えている。誤解しないで頂きたいのは、あとがきにもある様にこの本は各章を独立させて読むことも全体を通し読むことも奨励されており、本の読み方を読者の判断に任せている。私は最後まで読んだ結果、著者の言わんとしている事はやはり全体を読むことで浮き彫りになってくるものであると感じたのだが、ここでもその読み方を強制することはしない。1章だけを選び取って読んでも、日常の断片に触れることは勿論可能だ。順番などは関係なく(勿論、内容の理解にとっては順番に読むと更に理解が深まるが)、各々目次を読み、パラパラとページを見ながら手が進むままに読み進めていける。その断片=鍵は、日常を過ごす中で同一の体感が存在せずそれぞれ違うものであることと同様だ。読者自身が読んでみるまで分からないのだ。


二、断片その7:くりかえす
 この章を読んで私が最初に思い浮かんだのは任天堂から発売されているゲーム「どうぶつの森」(任天堂から発売されているコンピュータゲーム。ほのぼのスローライフを送ることが目標)である。このゲームは、どのシリーズも森の住人となるべく引っ越してくる所から始まる。そこから終わりのないリアルタイムな毎日というゲームが始まるのだ。ゲームのエンディングは無く、‘日常を過ごすこと’がこのゲームの趣旨である。家を模様替えしたり、住人と他愛のない話をしたり釣りをしたり果物をとったり等、自由きままに過ごせる。この世界には義務という強制力が存在しないのだ。私はこの単調な繰り返しを平和だとも感じるし、時たま退屈だと感じてしまう。しかし、この何が起こるともなしの日常に癒しを感じて、なんとなくゲームを起動してしまうのだ。
 毎日こなす作業は楽しくなければ意味がない。むしろ作業に意味が無ければ、あんなに繰り返すことが出来ないに違いないと思っていた。例えば毎日通勤電車に揺られるサラリーマンを見て「何故、毎日文句も言わずにこなせるのか」「私もいつかそうなるのか」という疑問と不安が私をいつも襲う。まるで日常の繰り返しの象徴の様にサラリーマンを見ている訳だ。しかし、この考え方自体どこかおかしいのだ。私だってとっくのとうに日常をしっかりと過ごしている。度合いの辛さや程度が問題なのではなく、それをどう意識しているかがここでは問題になるのだ。
 今が楽しければいいのだと、言う人は多い。死を怖がり、人生に意味を見出さなければいけないと必死に今の状況の理由を探す。私は一度「生き急ぐな」と他人から言われ、その時初めて日常に必死にしがみついている自分に気がついた。‘今’や‘瞬間’という一回性の言葉から想像するのは、音楽のライヴや舞台で行われる演劇だ。ライヴは誰もCD音源をしっかりと再現することを求めているとは思わないし、演劇だって失敗の可能性を常に含んでいる。一回性はその瞬間瞬間に起きている事象の連続であり、その場にいた者でしか味わえない‘空気’や‘体感’を感じることに重点が置かれているように思う。複製されたCDやDVDというメディアは私達に作品を手早く提供してくれるが、決して触れることのできない現実をも知らしめてくれるようになり、一回性に再度魅力を感じるようになっていく。
 何も問題が起きない日常の繰り返しを求めることは、死や不安、失敗などのマイナスのイメージを消去し、徹底的にぬぐい去ることである。しかし、これは逆にマイナスの観念に捉われているからこそ起きているのだ、とこの章では語られている。まさしく私が、色々な瞬間に感じていた感覚を、本当に的確に文章にされているようで読んでいてヒヤリとした。私は、「実は日常を感じていた‘振り’をしていただけで、実際には皆が目を向けている避けられようもない死やリスクから逃げていたのか」とも考えた。しかしこの『アトラクションの日常』の中では、その葛藤や逃げであるかのような日常を求める行為を否定するのではなく、あくまでそれを指示し(ここは鋭く的確に)目を向けさせ、もう一度日常を見てみようと語りかけてくる。ここで私はやっと、この本から責められているのではないか、という感覚から抜け出すことが出来た。私の救われた様で少し居心地の悪い気持ちは、最終章「夢みる」に繋がっていく。


三、断片その10:夢みる
 最後の章、「夢みる」は読んでいるとやはり胸が詰まるようであったが、読み進む手は止まることはなかった。今まで読んできたどの章よりも自分に引き付けて考えさせられる為だと思う。本章の「常に夢を見ていなければ失格者と見られる」こと、これは誰より自分が自分を評価する時に用いている現象だ。何より、そのサイクルにしっかりハマっていた私を、まるで先生に本を通してじっと見られている様でなんとも居心地が悪い。見本その通り、以前の私は希望がない将来なんて何もない空虚の状態だと思っていた。高校生の頃が一番のピークであったように思う。夢という目標がなければ成長しない、夢を考えない想像しないなんて怠けている証拠だと思う反面、思いつかない現実に苛立っていた事を覚えている。自分にも世の中にも苛立ち、具体的に描けない将来に焦っていた。過去形で締めているものの大学4年目になる今、この状態から脱却できた訳ではない事を先に記述しておく。
 この章での見本を高校生の私に当てはめて言えば、周りのマスメディアや学校から未来の夢をしっかり考えろと急かされ、しっかりとお手本に習うように大学を選び「将来の事を考えるために進路をとった」と後付けのそれらしい理由をつける。現在の延長となる将来を考えているようで、実は周りのあらゆるセットの中で高校3年生Aとしてしっかりと演じてきたのだ。しかし、それが嘘でも虚構でもなく紛れもない現実だったことは自分がまざまざと感じている。この本はやはりこの社会の機能をただ否定的に批判するのではなく、そんな過去の自分に語りかけてきてくれた。


四、仮面ふたたび
 この節は、本著の意図から更に自分に引き付けて考えている部分であるので独立して記述している。よって、本筋とは関係のない事柄を語っているが、私の日常から切り離せない部分であるので追加して書くことにする。
 自分の日常や毎日の生活について何も疑問に思わない・考えない人などいる筈がない。しかしどこかで、実は私だけがこんなに悩んでいるのではないか、と考えてしまう瞬間がふと訪れる時がある。まるで周りの誰もが日常を満足に受け入れて、毎日を「充実的」だと常々実感しているように感じてしまう。そしていずれ遠まわしに私という人間がその他よりも個人性を感じすぎていると曲解して、周りの匿名性と自分を分け隔てて考えるようになった。私はこれを自分が仮面をつけ、周りもまるで同じ仮面をつけて接していると表現し、卒業論文のテーマとして発表したことがある。
 『アトラクションの日常』8章にも仮面の表記が登場する。ここではアトラクションとして、また予定調和な展開を約束させるセットとして、単独性と複製について述べるにあたっての素材であった。同じ顔をした仮面について不気味だと記す感覚は、誰もが共感するだろうし、セットの一部として見落とされ気がつかなかった点でもある。ここで出会った仮面と私が考えている仮面の決定的な違いは、前者が装置・セットとして見ていることに対して後者は演者そのものであったことに尽きる。私が‘仮面’を捉えていた次元は、自分では第三者的で引き目に見ていると考えていた中、実はしっかりと日常の中で機能し、自らもはまってしまっている仮面に気が付かず、ただイメージと感情を一致させて言及しているだけであった。ここの違いを意識出来なかった時点で、‘仮面’は私に扱えるテーマではなかった事がよく分かる。
 結局、卒業論文で仮面は扱わず、テーマは見落としてきた日常の断片から拾い上げられることになる。周りの触れられる日常の断片を見てもなお決心できなかったが、ここでやっと自分と自分が過ごしてきた軌跡と向き合うことになった。私はやっと、自分の仮面を取ることにしたのだった。


五、最後に:大学生としての日常
 親や友人に大学で何を勉強しているのかと聞かれて、上手く説明できない自分が腹立たしくなった。上手く説明できない自分は、メディアを勉強する資格があるのだろうかと強く不安にもなった。就職活動における面接でも自分が勉強したと思えることを満足に伝えることは出来ず、活動を終えて振り返った今でも私が意図した通りのメッセージを受け取ってくれた面接官はやはりいなかった様に思う。それは単に、私の力不足でもあり、メディアという学問についての理解不足以外の何物でもない。そんな大学に入って4年目になろうという私に、長谷川一先生から一冊の本が届けられた。それがこの『アトラクションの日常』である。
 1年生の頃の私は、メディアをどこか捻くれている学問だと捉えているところがあった。日常という当たり前すぎて近すぎて見えていない部分を、斜に構えて見ている、そんな思いがあった。きっと、自分がどこかで抱いていた考えをピタリと言い当てられてしまったようで、まるでそこを見ていなかった自分は対応する術も向き合う度胸も無かったのだ。この本は、そんな私に日常を考える勇気やきっかけを与え、背中を押してくれる愛に溢れたラブレターである。誰よりも私の側にいる大切な人たちにこそこの本を是非読んで貰いたい。私が4年間学んできた事の断片が、この本の随所に散りばめられている。

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◇「影」に出会う旅−『アトラクションの日常』を読んで−◇

書き手:レクリエーション係

 終わりまで読み、また最初のページを開きピーターパンとウェンディのやりとりに、はっとした。影のとれてしまったピーターパンを気の毒に思うウェンディ。影、それは「日常」なのであり、そこから離れることは気の毒、なのである。再び始めに戻ると、そんなことを読み取ることができる。この本は計算しつくされている。〈アトラクション〉という概念も、螺旋状に絡み合う10個の項目も、行き届いていて、それでいて長谷川一先生そのものだ。
 本書で〈アトラクション〉とよばれている、一連の仕掛け。この特徴にあげられている、5つのうち2つについて取り上げたい。第一に挙げられているのは、「〈アトラクション〉がもたらすのは、モノではなく、出来事(イベント)である。」ということ。そして第二は〈アトラクション〉で重視されるのは、「出来事の内部に巻き込まれることである。」ということである。その後には「わたしたちの生活の主焦点は、モノの水準からイベント、つまり活動や経験をもたらす出来事の水準へと移行している。」(p. 5 ?13)と述べられている。この特徴2つを見ても、私が今まさに書こうとしている卒論のテーマである「まつり」について通じるものを感じる。私が「まつり」を使って模索して悩んでいることも、なんとなくこういうことなのかもしれない、と思った。内容や結論が同じということではなく、私が雲をつかむような思いで向き合っている課題にどことなく近く、重ねることができる部分があるのだ。それは、この本でも私も「出来事」に着目しているところである。本書の中で「出来事」とは「身体によって実践される組織化された一連の活動であって、生起・発展したのち収束するような現象」と説明されている。まつりと聞いて誰もが思い浮かべるような祭りだけでなく、私たちの生活は出来事の積み重ねである。そしてその出来事の内部に人びとは巻き込まれ、参加していく。それによってもたらされる活動や経験。具体的なものや事ではないが、まさにこの生活に寄り添う「出来事」に関心がある。その「出来事」を自分なりに解き明かすことを今、卒論でやろうとしているのだろう。


 「アトラクション9同期する」を読んで連想したのがライブハウスや音楽イベントでよく目にする、音に「ノる」ことである。ライブや音楽イベント、クラブの中でひとたび音が鳴り出すと、観客はそれにあわせて身体を動かす。ただ動くのではなく、音のリズム、ビートを感じながら身体を揺らす。日本武道館でのライブイベントを思い出してみよう。演奏者は楽器や声を使い、ここぞとばかり全身全霊を込めて奏でる。観客は何メートルも離れた地点からそれを見つめ、音を聞く。そこで、実際に耳にしているのはスピーカーから流れる音である。演者の発している音を聞いているようで、実際には電気を通してデジタル化された音を聞き、それにノっているのだ。私たちはいつのまにか目の前にいる演奏者が発しているものを聞いている、と当たり前に思っている。もしかしたら後ろで違う人がその音を弾いているのかもしれないし、口パクかもしれない。たいていの場合は、生の音が記号化され機械の中を通り、私たちの耳に届いているのだ。観客はステージの上にいる大好きなアーティストのパフォーマンスに応えるように、音に「ノる」。その様子を見たアーティストはさらに手拍子や、時にはマイクを向けては合唱を促す。そして観客は彼らの作りだす世界に巻き込まれていく。まるで夢のような心地の良い空間へ。観客はいつのまにかイベントに参加している気持ちになり、ノることで解放的な楽しい気持ちになる。そこで行われているのはまさに、機械と身体の同期ではないだろうか。そしてその同期をするためのセットが、ライブハウスや音楽イベントの会場、なのである。照明、ステージと観客席、スピーカー、マイク、すべてだ。音楽に「ノる」という身体の能動的なきっかけから人びとは音楽の中に巻き込まれ、いい気持ちになる。これがまさに「同期した」瞬間であり、それと同時に〈アトラクション〉であることを表しているのではないだろうか。


 「夢はなに?」「なにになりたい?」ことばがわかるようになってから、耳にたこができるほど私たちは聞かれ続けている。いつになったらこの質問から離れることができるのか。本書のラストをかざる「アトラクション10夢みる」ではそんな夢や将来について言われ続けてきた私たちにやさしく問いかける。「夢なり欲望なりを実体として求めれば求めるほど、結果のいかんにかかわらず、夢なり欲望なりに従属させられることになり、じぶん自身を奪われていく。」(225頁7行目)この章を読んで、将来や夢についてなにか見つけようとしていた自分は、どこかで安心しほっとした。それは「自分」という実体のないものに翻弄されているときと同じ感覚だった。「夢みる」ことと「自分を探す」ことは同じなのかもしれない、と思った。違うところももちろんあるだろうが、ある面では同じように私たちに作用しているのではないだろうか。
 人間は「自分」が何者なのかに関心がある。血液型や星座占い、手相占いなど、あらゆる方法を使って「自分」を図ろうとする。就職活動では自己分析を行う。そこでは自分らしさ、個性や自分にしかないものを必死に探す。しかし、そうやって見つけられた「自分」は、作られた型にはめ込まれ「従属させられ」、結果「じぶん自身を奪われていく」。
 長谷川先生の授業を受ける、卒論のテーマを考えるということは「自分」と向き合うことなしには成り立たない。自分にはなにがあるのか、なにを語るべきなのか考える。ここでの「自分」は自己分析シートや適性検査の結果でわかるようなものではない。私にとってこの「自分」と向き合うことは苦難だった。今でもよくわからない。でもここで私がするべきことは目の前にある課題を「現在」の自分が全力で取り組むことでしかない。そうやって歩いていくことで「わたし」の影に気付くことができるのではないだろうか。そんなことを考えた。


≪引用文献≫
長谷川一著『アトラクションの日常 踊る機械と身体』河出書房新社、2009年

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◇『アトラクションの日常』の裂け目とナンシー関のものの見方と感想◇

書き手:鍵係

 先生が授業中に口頭でおっしゃっていた「日常は出来の悪いテーマパークだ」ということの意味を、本書を読んでしっかりとわかってしまった。自分が世の中の部品になるという話も理解してしまった。その知らないほうが幸せなような知らせを聞いたうえでも、どうしようもなく生きていかなければならないことも知ってしまった。今までずいぶんと長い間、そのぬるま湯のような中で、それらのことに気付きもせずに流されて生きてきた、というよりも「死」んでいたということも思い知ってしまった。
 そんなむなしいような悲しいような世の中のアトラクションにすっかり組み込まれてしまわないための方法として、アトラクションの日常に「裂け目」を見つけるということがある。そして、1章から10章のなかでそれぞれの裂け目をどんな風に見たらいいのかが述べられている。これが私には、ナンシー関の実践していたことと重なる気がするのである。それはたとえば「アトラクション3流される」で言うと、こういうことである。「群集流の交錯や滞留は(…)ひとびとの身体やふるまいにたいする管理・統制の綻びでもあり、わたしたちが生きざるをえない今日の日常のわずかな裂け目なのである。そこには、日常に違和感なく埋め込まれている「流されること」という〈アトラクション〉を別のゲームへと仕立てなおすための契機が潜在している」(83頁1行目)。このもののとらえ方はナンシー関のそれと似ていると思うのだ。ナンシー関のとらえていた対象はふるまいではなくて、主にテレビであった。しかしその膨大な数のテレビ批評を読むと、これと近い見方で書かれているものも多くあるのである。たとえば「木村拓哉の揺るぎなき「カッコイイ」にあけたい蟻の一穴」(※1)という文章である。木村拓哉の磐石な「カッコイイ」という人気について「盲点はないのか、と話を持っていきたい」(※2)として、「歌」というポイントからかっこ悪さを見つける、というふうに論を展開している。このように、見せられているものや世間に流通しているものをただその通りに受け止めるのではなくて、その中に綻びを見つけ、それをおもしろく笑えるような文章であらわす。ナンシー関はテレビ番組や芸能人を見に見ることでその「綻び」や「裂け目」を見つけ、「別のゲームへと仕立てなおす」ということをしていたのではないか。「アトラクション10夢みる」で『夢見た旅』という小説の主人公を例に挙げていっている「見ることを徹底してみせ」(249頁15行目)るということも、日常に「綻び」を見つける際の重要な点とされている。ナンシー関はこういった点も持っている。彼女は自身の文章の中で「見えるものしか見ない。しかし、目を皿のようにして見破る」(※3)と述べており、見尽くして「綻び」を見つけていたのではないかと思う。ナンシー関は「「綻び」の露呈を捕捉することを可能にし、「自己」や「現在」が投企されている日常生活とよばれる世界に裂け目を入れる」(249頁7行目)ために必要な条件というか基本的な動作を、テレビを見るというアトラクションにおいて、徹底して行っていた人なのではないかと思った。そうすることで自分が世の中の単なる部品になることからなんとか脱出を図っていたのかもしれないと感じた。
 また、「アトラクション9同期する」の部分で「状況から切り離された地点にたち、状況の全体を同時に俯瞰すること」(198頁3行目)が批評や分析を行う前提とされている。こういった部分も、ナンシー関には備わっているように思う。ナンシー関がすごいといわれる理由がわかってきた気がしている。そういうところをもっと、卒業論文を書くことで見つけていきたいと思う。


 以下は感想である。「アトラクション9同期する」では自分の関心はこういうところにあるということを改めて確認した。皮肉や、喜劇と悲劇の違いなど、認識の枠組みが関係していることにものすごく興味をそそられる。なかでも「狂った機械」の話がとても興味深かった。以前、便利な世の中になって全部が機械やらなんやらで済ませられるようになって、人間と接することがなくなったら笑いはなくなるのか、というわけにわからないことをふと思ったことがあった。しかしこの章を読んで、相手が機械でも何でも、認識するのが人間ならば、何とか笑いはなくならないで済みそうだと勝手に納得して、また笑いに興味がわいた。
 この本は「世界が「わたし」のことなど歯牙にもかけていないという現実にたいする諦念」(29頁10行目)であるとか「生きてゆかねばならない現在のこの世界」(6頁8行目)などの暗い気持ちではじまって、読み終えた後にもさっぱり明るい気分にしてくれるわけではない。しかし明るいほうへと自力で向かう、手がかりをつかませてくれる。それを頼りに、とるに足らない日常の小さな裂け目、本書でいうところの「希望」を、自分で探して見つけていければ、何とかやっていけそうな気がするし、そうやって何とかやっていかなければならないのだと思う。そのためにこの4年間、先生の授業でたくさんのことを体験し学んできたような気がしている。


≪引用文献≫
長谷川一著『アトラクションの日常 踊る機械と身体』河出書房新社、2009年
※1 ナンシー関『何がどうして』角川書店 2002年 12頁
※2 同上 13頁7行目
※3 ナンシー関『何をいまさら』角川書店 2000年 27頁4行目

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◇「アトラクション10【夢見る】」から考えたこと◇

書き手:レポート回収係

 「消費することであたかも、「夢」がかなったかのような気にさせる」(234頁15行目)という一節を受けて自分の日常を振り返ってみると、似たような構図を持つものが日常に溢れていると感じる。
 例えば、それは期間限定品、数量限定品のお菓子を買う行為。就職活動の一環で説明会に足繁く参加すること。話題のスポットへ行くこと。通を気取ってマイナーな映画を見に行くこと、など。これらの一連の行為は、時に行列に並んだり、パンプスで歩き通し足を痛めながら電車を乗り継ぎ移動したり、余暇を使って早起きしてのお出かけ、ということでなされる。つまりは金銭や労力や時間を消費することでなされる。私がそこから得ているもの。それは世間の潮流に乗ってとりあえず満足する感覚や優越感といったことが大きい。それは「夢」というのとは違うけれど、空っぽの綿菓子のような甘ったるさで自身を麻痺させる、だますような感じがして、なんだか構図として類似していると思った。就活に関して言えば、とりあえず説明会に行き、行ったという事実、足の痛み、精神的緊張と体力的疲労によって、大きな収穫をしてきたような気になる。収穫とは、話をしてくれた社員個人の人のモデルケースに正しさのようなものを見出してその人と自分を重ねようとする感じ。また、映画系列の授業で先生に薦められた映画を観て、なんだか映画通に近づけたような感じがして貴重なものを観たという満足感で終わる感覚。どちらにも共通して言えることは、自分で考えないということ。結局映画を観ても「なんかよかった」としか言えない自分がいる。意味はよくわからなかったけれども。とりあえずそれは無視する。だってフィルムセンターの研究員が良いって言うのだから。何も考えない、考えなくてすむ。それが麻痺した状態。
 そしてもうひとつ。私にとって演劇を見に行くことは、「あちら」に引き込まれていると同時に、自分の内側のさらなる「こちら」である過去に引きずり込まれて古傷をえぐりながらもう一度過去を生き直しているような感覚である。本でいうところの「参加」はできていないけれど、私にとってはテーマパーク以上に参加をしている気分になる。そして「現実から切り離されて浮遊する、文字どおり地に足のつかない夢見心地」(236頁9行目)になる。ものすごく心の奥底に響いて、この高まった気持ち、大好きの最上級みたいな感覚の告白口を探していつも苦悩する。結局パンフレットや書籍を買うという消費行為に走る。
 高校生の頃、ものすごく好きになった既に解散しているバンドのCDアルバムを集めようと思ったときに、十数枚出ている作品たちを中古で買ってしまうことがすごくいけないことのように感じた。ファンならばすべて新品で揃えなくては、なにか自分の気持ちが純粋ではない様な気がして、いつか本人に会ったときに、中古のCDにサインしてもらうわけにはいかないし、でもお金がないし、どうしようか、と真剣に悩んでいたことがあった。別に心で思っていればCD自体を所持していようといまいと誰に文句を言われる筋合いもないのだけれど、その極まった気持ちはまっさらな状態を買うという行為でしか表せないような気がした。最近の音楽事情にしても、これ見よがしに限定生産版などを売り出し、“ファンなら買うでしょ?普通”的プレッシャーで消費を煽ってくるように感じる。
 しかし私の場合、購入しても見向きもしなくなることが多い。買って満足して終わる。このことが自分でも不思議なのだけれど、そうなる。この構図もまた先に述べた消費によって満たされるような錯覚に陥る感じに似ているように思った。
 「アトラクション10夢見る」の章が読んでいて一番痛い。書いていて未だまとまってはいないのだけれど、ずっと思っていたことで読んでいて思い出したことに名前をあてはめてあげたような気が自分の中ではしている。


≪引用文献≫
長谷川一著『アトラクションの日常 踊る機械と身体』河出書房新社、2009年

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◇『アトラクションの日常』で考えたこと◇

書き手:スケジュール管理(マネージャー)

 これはまるで先生の授業だ。ページをめくりながらそう思った。本書で取り上げられているものが今まで受けた講義で見たり聞いたりしたものだからではない。本書の全体の作りが四年間で体験してきた講義にそっくりだと思った。本書も講義も長谷川先生から生み出されたものだから、「そっくり」という表現はおかしいのかもしれない。しかし、そう感じてからページをめくるのがわくわくしてきた。読み進めることで、講義を受けたあとに感じる、「あの感じ」を得られるかもしれないと思ったのだ。
 先生の授業は一年時からメディア系列必修科目としてだいたい一コマずつある。それらいずれも一コマだけ受けても、それ以前を受けていないからといって付いて行けなくはない。もちろん通年でとったほうが望ましいが、それぞれが単独で成り立っている。だが、積み重ねていくことで、それぞれが互いにつながりを持っていることに徐々に身を持って気がつく。単に、具体的な用語や言葉の意味が理解でき、新しい授業をとった時に、理解する範囲もレベルが増していくというものではない。たとえば前の学年で受けた授業があったからこそ、それが次の学年で使える「見えない通行証」のようなものになるのだ。大きさや使い方は人によって違うのかもしれないが、積み重ねていった数だけそれぞれの講義で得たことが絡み合い、通行証の機能が増えていく。次の課題に向き合った時、自分の持つ通行証がアップグレードしていることに気がついて驚く。自分では全く気がつかないうちに着実に機能が増えていく感じが、過程は苦しいのに、課題に取り組む励みになっていく。四年間を振り返ってそんなふうに思う。それと本書の構成が似ていると感じた。
 本書の構成についてあとがきで以下のように述べられている。
 本書の構成は入れ子状だ。各編それぞれ、ひとつの動詞によって示される主題に沿ってさまざまな領域を横断してゆくし、十篇からなる本書全体の構造もまた、ひとつの主題をめぐって少しずつ重なりあいながら、ゆるやかにらせん状につながってゆく。
(263頁2〜4行目)
 ひとつ前の章が次の章につながって、次の章を読む際の通行証になっている。入れ子状だと聞けば確かにその通りなのだけれども、読み進めていくうちに、各章で読んできたことが新たなものを読み解く鍵になって、つながっていく。現段階の私では、理解が浅く不十分な解釈なのかもしれない。しかし、そのことに気がついて、本というだけで勝手に緊張していた私は、ほっとした。ページを開けば教室で感じる、雰囲気が広がっている気がした。
 全体を通して、少し感覚的なことだけれど、以上のようなことを感じた。それとは別に、気になった章について今の段階で考えたことを述べたい。自分の卒論のテーマに関連して気になったのは「アトラクション8 複製する」である。「複製」という扉に書かれた文字をみて先ず連想したのがベンヤミンの「複製技術の時代における芸術作品」である。連想したとたん、緊張して、ページを開くといきなり豚の顔があって肩透かしをくらったような気になった。そんな「千と千尋の神隠し」の豚の顔の話で油断していたら、すぐ後に「顔と筆跡」という節が出てくる。自分の卒論のテーマが書体なので、文字関係のワードが出てくると他の言葉よりもひっかかる。筆跡は顔によく似たものとしてあげられている。顔と同じように身体は引き離せない自分のもの。この筆跡の持つ「個性」を消す役目を持つのがタイプライターである。タイプライターの登場について述べられている箇所を読んで、頭が混乱した。どうしても自分のテーマに絡めて読んでしまったせいか、そこで読み進めるのを辞めてぐるぐると考えてしまう。私は随分ひねくれた視点から書体に興味をもったのかもしれないと不安になった。「言葉を手から強引にひきはがして」いった、タイプライター。手から引き剥がして複製可能な活字で文章が書かれるようになってゆく。活字は「自分」の文字ではない。本を開いて行儀良く並んでいる文字達は「千と千尋」の豚たちと一緒なのかもしれない。複製可能な、「個性」を持たない、顔の無い活字たち。それなのに私はそこに「表情」があるように思えてしまう。勿論、異なる書体であれば同じ文を書いても印象は変わる。しかし、初めて文字が面白いかもしれないと思ったのは、書体ごとのデザインの差異から生まれるものではなかった。ページに並んだ一つ一つの活字が「顔」や、ページという顔に置かれたパーツのように見えて表情があると思ったからだ。
 今の段階では、考えが同じところをめぐってしまい進まないのだが、この章を読むとどうしても「顔」と「活字」を絡めて考えてしまう。複製された自分の顔のマスクの集団を「不気味」で直視できなかったロジャース。自らの筆跡が「分身をみているようで、気持ち悪い」と個性を消去しようとした梅棹忠夫。自分の文字でも無いのに本文組みに表情があるように思えて気持ち悪く思えてしまう私。視点も関係も全く違うのだが、三つ並べて書き出してみて、考え込んでしまった章である。
 卒論のテーマとは別に考え込んでしまった章は、最後の「アトラクション10 夢みる」である。まず読んでみて連想したのは三年次に受講した夏の集中講義だ。「働くとはなにか」というテーマで5日間、頭も身体もぐったりするまで考えた。あのときに散々出てきた「夢」という言葉。あの時、班で考え抜いて「やりたいことと向き合う」というような暫定的な答えを出したのだが、あれはなんだったのか。まだまだ自分の言葉にして考えられていなかったのではないかと読み進めながらふと思った。それと同時に現在の自分の状況を考えた。大学四年生、進路は決まっていない、ふわふわと夢をみている状態。読み進めていくうちにこの章と集中講義と現在の自分が重なるようで違う場所で違う形をしたもののように思えてくる。狭い範囲で得たことで考えているから仕方が無いのだろうかと思いながら読み進めていて、次の文章が目に飛び込んできて泣きそうになった。
 「未来」とは、たんに物理的な時間軸上の将来のある時点をさすのではなく、「現在」をできるかぎり遠くにまで引き延ばしていったものをそうよぶのだ。そのとき「現在」を引き延ばしてゆく力が「夢」なのである。
(254頁4〜6行目)
 昨日はじめて卒業後の進路を文にした。いま私は目の前の卒論しか見えなくて、それをいつも言い訳にしていた。文字に起こすとまだふわふわとしていて頼りなくて霞んでいる。だが、初めて出来るだけ「現在」を引き伸ばしたら、何だか気持ちが良かった。


≪引用文献≫
長谷川一著『アトラクションの日常 踊る機械と身体』河出書房新社、2009年

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◇長谷川先生へのラブレター◇

書き手:会計係

 『それを失ってしまうことへの不安と、そこからの離脱が許されないかもしれないという怖れ。矛盾するこの二つが同時にたたみ込まれている時空間こそが、日常だ。』(244頁11行目)


 この箇所を読んで、はっとした。私も、例にあがったアン・タイラーの小説「夢見た旅」のシャーロット・エモリーさながら、旅に出たのだった。


 「アトラクションの日常」を読み終え、著者でありゼミの担当教員でもある長谷川一先生が、卒業論文を通じて私たちゼミ生に何をさせようとしているのか確信できた気がする。 
 明治学院大学文学部芸術学科メディア系列の長谷川一教授のゼミ・通称「長谷川ゼミ」は、卒業論文のテーマを「各人にとって切実なこと」とし、まずはそのテーマ設定に徹底的にこだわる。「各人にとって」だからといって「自由」なのではない。4年の8月の夏のゼミ合宿までという長い時間をテーマ設定と目次確定に注ぐのは、自分で選んだテーマが本当に切実なことなのかを真に問われるからだ。
 そして現在、紆余曲折の末にゼミ生がたどり着いた「切実なこと」は、各人の「日常」だった。その「日常」は、人それぞれである。好きで仕方なく、四六時中そのことで頭がいっぱいになってしまうような「好きなこと」をテーマとした者から、今までは意識していなかったけれど、毎日に溶け込んだ自らの思考・行動パターンや悩みを発見する者まで、ゼミ生12人12色といったところである。
 私は、自分の宗教をテーマに選んだ。いわゆる新新宗教に分類される団体で、母の方針により物心ついた頃にはすでに入信させられていた。私にとってその宗教とともにある生活とは、まさに「日常」であったと言えるだろう。思春期を迎えたあたりから、肯定したり否定したりと様々な局面で自分の所属を確認することはあったが、たいていは意識にものぼらないほどに私と一体化していた。
 卒論のテーマを問われ、懸命に考えた末に思い当った「宗教」。4月のゼミの始めは、やっと自分の「日常」を発見した喜びから、何の気負いもなくそれをテーマにすると宣言していた。しかしだんだんと、このテーマがいかに自分の生活に寄り添ったものであるかということや、自分の人格形成に大きく関わっているかということを実感し始め、6月あたりでは、テーマ決定に躊躇する自分と、変更は逃げではないかと叱咤する自分が死闘を繰り広げていた。


 そして私は、思いもよらないタイミングで、旅に出てしまったのだった。


 ある日のゼミで、私は長谷川先生に名指しで注意を受けた。それはゼミではいつものことで、誰が例にあがろうと全体へ向けての指示であり、私が否定されたわけではなかった。ただ、たまたま私の行動に即して話が進められただけだった。しかしその時の私は、まるで異世界に飛ばされてしまったかのようなショックを受けた。おそらくタイミングが悪かったのだ。急に、卒論のテーマ設定に始まり、全力で取り組んでいるゼミや授業での自分の振る舞いが、まったく空回りしているように思えて仕方なくなってきた。予想をしている「自分の位置づけ」と、周囲からの「自分の位置づけ」に埋めようもないほどのズレが生じているように感じた。今まで、何とか自分の行動と出来事に意味を見出してきたが、きれいに塗り固めてきた「過去」に、ついに決定的な綻びを見出してしまったのだった。頭の中が混沌とし、混乱した。その場にいられないという気持ちに駆られ、トイレにでも行って気分を落ち着けようと教室を出た。しかし私の足はそちらへは向かわず、非常階段を降り、校門を出て、大通りへと歩いていった。どうしたものかとふと顔を上げると、遠くに東京タワーが見えた。
 大学から最寄りの駅へ続く大通りは、いつも進行方向に東京タワーが見えている。てっぺんから3分の1ほどのとんがったそれが、ビルの間から姿を見せる。2駅先のその場所を目指して歩いたことはなかった。行くとなればわざわざ歩かずに電車を使うし、そもそも東京タワーを目指す理由も時間もない。しかし、目の端に捉えるたび、ここから遠い場所を目指すという行為そのものに漠然と憧れていた。そこで私はこのとき、東京タワーを目指して歩いてみようと思い立ったのだった。


 「アトラクションの日常」を読み終わった今思い返すと、私のこの行動は、第10章「夢みる」の一例として出てくる、シャーロット・エモリーの旅立ちへの憧れに酷似していた。「日常」を失うことへの不安、そして離脱が許されないことへの不安が重なって、すべてを放棄し、旅に出るという選択へと辿りついたのだ。また、第2章「乗り込む」の「サンダーバード」の例にも非常によく似ている。思えば特にこの旅立ちまでの数カ月間、ゼミのテーマをめぐる様々な出来事に悩み、苦しみ、ときには涙した。そのたびに「ひとつ成長したんだ」と自分をごまかしていたが、実はそれらの出来事が起こるたび、そのひとつひとつが儀式の手順としてすべて連なり、サンダーバード2号でいうところのエンジン点火へと繋がっていたのだ。根拠はないが、自分が自分である何らかの確信を持っていた私は、「ショック」を受けるたびに少しずつ分離され、混沌の渦中に投げ出された。そんな頭の中とつじつまを合わせるようにして、身体も移動し、旅に出たのだった。


 私は歩き出した。道順はまったくわからない。東京タワーの姿を見失わないようにしながら、とにかく歩いた。そして今までの自分に思いを巡らせていた。頭の中を占めていたのはやはり、自分を決定している、自分の所属の問題だった。強い信仰をもつ家庭の人間であること。自分の環境を呪った。もしも何かを強く信仰することがなかったら、自分の考えや行動が、そういった信仰の対象に支配されているなんて考えには及ばなかったかもしれない。長谷川ゼミの存在も大きい。ゼミをとっていなければ、そんな自分の宗教に無理やり向き合うこともせず、適当な距離感で、悪く言えば見て見ぬふりをして、過ごしていけたかもしれない。もはや学校にも、家にも帰る気にもなれなかった。もう、すべて捨ててしまおうと思った。今の自分にとって絶対的な場所をこうして抜け出せたのだから、捨て身になれば何でもできるだろう。何日か街を放浪してもかまわない。何をしてもいい、とにかくゼロからやり直したい。一人でどんどん思い詰まりながら、ひとまずガンガン歩いた。
 しかし、こんな状態なのに、人に道を尋ねるとき、いやにばか丁寧な自分に気がつく。この愛きょうの良さ、礼儀正しさは、育った環境で身につけてきたものだった。こうした自分の振る舞いの大部分に、根拠として宗教があるのだ。信仰がなくても私のようにする人はいくらでもいるだろう。でも私は、自分のふるまいひとつひとつに、宗教性を見出してしまう。財布と一緒に身分証明書はすべて置いてきてしまっているのに、接触する相手の目にはしっかりと自分の笑顔が映っていて、気持ちが悪かった。目の前を選挙カーがけたたましく走っていった。私の宗教が立てた党の選挙カーだ。一歩足を踏み出すごとに、幼い頃から積み重ねてきた、「信仰のある日常」の色々な場面が頭をよぎる。強盗犯ジェイクもいなければ、直接になにか「映画」を観たわけでもない。しかし私は、確かにこの旅の途上で、どこへ行っても影のように付きまとう自分の「日常」の断片を確認したのだった。
 何度も迷いながら辿り着いた東京タワーは、遠目に見た印象とはまるで異なり、異常に大きく無骨に感じられた。せっかくだから最上階まで登ろうかとエレベーターに目をやったが、ある程度上の階まで行くにはチケットが必要らしい。その時は手持ちがない自分を恨めしく思ったが、もしかすると目的地で金を使えないことで何か救われていたのかもしれない。なぜなら、私は東京タワーに、ディズニーランドにも似た「夢」のようなイメージを多かれ少なかれ貼り付けていたからだ。やや大げさに言えば、「現実」を無視し、「夢」の消費にいそしんでいたら、ここまで旅した意味を失ってしまっていたかもしれない。同じく金がなければ意味をなさない1階のゲームセンターや土産屋をながめてまわり、その空間に馴染めないままに憧れの東京タワーを後にした。
 極端な消費行為こそ避けられたが、学校までの帰り道がわからなかったので、結局、交番で交通費を借りて電車に乗った。手ぶらで泣きはらした顔で電車に揺られ、人ごみに流される。行きの道ではあんなに旅立ちを固く決意していたのに、まるで最初から帰ることが前提とされていたようなそのオートマチックな動作の連続に少し嫌気がさしたのを覚えている。なんとか教室へ戻り、先生やゼミ生に勝手な行動を詫び、家に帰った。


 正確に言えば、実はこの日から、まだ私の旅は続いている。その証拠に、今まで全くなかった習慣が身に付いた。それは散歩だ。歩きながら考えることがいかに頭と身体を馴染ませるのに有効かに気付いたのだった。ほとんど毎晩、散歩に出かける。悩みの大きさに比例して、散歩の時間は長引く。ずっと、悩み続けている。悩みとはもちろん、卒論についてである。良く知った家の周辺をくりかえし練り歩いたあげく、いつも必ず戻ってくるその行動は、機械こそ介さないが「アトラクション」に似ている。しかし、ただ悩んでいるだけではない。私はそれをくりかえしながら、卒業論文のテーマを「宗教」とすることに腹をくくり、目次を考え、序論を書き、調査を進めてきた。長谷川ゼミにとどまり続けているのだ。自分の「現在」を練り直し可能なものとしてではなく、ただ今たどり着いた場所として捉えなおしたのだ。


 ゼミの初期に一度、長谷川先生に、「自分で選び直すんだ」と言われたことがある。私はそれを、宗教の所属のことだと思い、なんと残酷なことをおっしゃるのだろうと驚いた。私の宗教は、何かの形だけの役職のように表面に張り付いたものではない。幼い頃から吸収し、私の身体の一部となった、血や肉のようなものなのだ。どんなに自分の宗教を客観的に捉えようとも、現在の私の一部は、選びようもなくその宗教によって形成されているのだから、皆目、無理な話なのだ。しかし、先生の言う「選び直す」は、全く別の次元の話だった。宗派を選び直したり、とどまったり、すべてを捨てるということではないのだ。私は、シャーロットが最終的に果たしたように、この旅を通じて、自分の「日常」が特別でも異常でも退屈でもなく、ただ「偶優勢の気まぐれの連鎖がもたらしたひとつの帰結にすぎない」ことを、確かめなくてはならない。
 私の卒業論文は、あくまで自分にとっての「枠組みを外す」試みである。どんなに打ち込んでも、1月までに書きあげられるものは、文字通り学生レベルにしか成り得ないことを知っている。世間に広く公開して、人の枠組みをも揺るがすような「作品」には到達できないだろう。しかしそれでも、自分で見つけ出した「切実なこと」、つまり「日常」と向き合い続ける。そうすることの重要性を、長谷川ゼミの生徒の一人として、しっかりと心得ているからだ。


 そしてまだ見ぬ結論に到達し得たとき、私は長い旅から帰還する。


≪引用文献≫
長谷川一著『アトラクションの日常 踊る機械と身体』河出書房新社、2009年

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アトラクション8複製する(pp.169-186)より連想

◇クローン人間という経験(おそらく)不可能なアトラクション◇

書き手:HP作成班(ブログ管理人)

 『アトラクションの日常』の中の「アトラクション8複製する」では、アイデンティティの要、「わたし」を「わたし」たらしめる「顔」という部位について主に語られている。「顔」とは、一人が一つ持っているものだ。そして通念上それは意志によっての交換や着脱が不可能なものであり、いくらの改変を加えたとしても「わたしの顔」としての機能しかできないものである。だが、「わたし」が「わたし」を保つ上で要にある「顔」でも、解体がなされる。そして機械的に複製・反復可能なものとしてつくり変えることが可能になる。そこで我々は〈アトラクション〉を見つけることができる。
 今回私たちゼミ生は、本書を読んで自分なりの反応を書くという機会を得た。ここで私は、上記にていささか強引にまとめた〈複製する〉という章から連想したことについて書くことにした。その具体的な事象として、私は「クローン人間」を挙げる。
 何故連想したものとして「クローン人間」を選んだのかというと、アニメや漫画作品の中の「クローン人間」には人間を〈複製する〉上での問題、関与する人間の行動パターン、感情、複製とオリジナルの関係性がもたらす物語の展開などが凝縮されている。もちろん人間のクローンがどこまで複製にあてはまるかなど不確定な部分があることは承知の上だ。これはあくまで私個人が『アトラクションの日常』を読み、その一部から連想したものである。
 ただし、実際のクローン人間の問題について書くには私自身整理がついていない。よってフィクションにおける「クローン人間」について述べることにする。ここでは1978年公開のアニメ作品『ルパン三世―ルパンVS複製人間―』(モンキー・パンチ原作。以下『ルパンVS複製人間』と記す)。を取り上げる。物語の具体的な内容にまで言及するため、未見または未読の方にはご注意願いたい。
 『ルパンVS複製人間』に登場する「クローン人間」はマモーという名で、主人公と敵対するキャラクターである。彼は一万年前から世界に存在し続けて歴史に影響を与え、「神」を自称している。つまり彼が「クローン人間」であるのは、この世に存在し続けるためである。自らのクローンをつくり、それが老化しては新しいクローンに乗り換えるのだ。生き続けるために何百体も自分の複製を繰り返してきた。自分だけでなく歴史上の権力者のクローンもつくり、主人公ルパン三世のものもつくったのである。だが、その主人公のクローンは物語の冒頭にて処刑される。しかし、冒頭の時点でマモー以外の人物が、この世にルパンが二人いることを知らない。
 この世にオリジナルである「わたし」と、その複製である「わたし」がいる。繰り返すが「わたし」は、自分の複製が存在することを知らない。あるとき、複製の「わたし」が処刑され、自分は死んだと世間で流布される。自分のことをよく知っている友人にも、「本当にお前なのか?」と問われる。それはきっと、とてつもなく心許ないことであろう。「わたし」を「わたし」たらしめるものの儚さを思い知る。そしてそれは自分の複製の存在を知った後にも不気味さがつきまとう。
 マモーにとってのクローン技術、置き換えて複製とは「不老不死」の手段であった。だがルパンにとってはそうではない。かけがえのない「自分」、延いては自分と共に在る仲間や自分しか成し得ない夢を、クローンがつくられたこと、〈複製する〉ことによって盗まれたという認識をしていることからそれがわかる。一方でルパンはマモーに「不老不死」を持ちかけられるが、ヒロインと共にそれを拒絶する。だがここでは、複製による「不老不死」に異を唱えたが故に拒絶をしたのではない。
 マモーの「不老不死」は明らかに不完全である。作り続けるうちにコピーのできそこないがいくつも生み出される。複製とはその多数存在し得る中で区別がないはずものである。したがってこのできそこないは隠ぺいされた。マモーとして君臨できるクローン人間それ一体だけが力を持ち、その他は雑務をしている。そこで浮かんでくるのが、このできそこないは一回性・単独性のある、つまりオリジナルとしての資格を持ちうるということはないのだろうか。この隠ぺいされたできそこないをルパンは先に発見している。よって、できそこないたちの上に成り立つマモーの虚栄を憐れみ、「不老不死」の不完全さを徒に指摘せず、「不老不死」自体の無意味さを説いて直接対決に挑んだのかもしれない。
「最後に教えてやろう。処刑されたのはコピーだ。したがって君はオリジナルだ。」
 終盤、ルパンの息の根を止めようとするマモーは事実を明かす。観客としては、今までどこか拭い去れなかったルパンの複製である可能性が完全に拭い去ることのできた瞬間だといえよう。だが見方を変えるとそれは、オリジナルに複製は決して敵わないということも表されているといえる。
 さて、こうして「クローン人間」というものを連想したが、果たしてこれは経験可能なアトラクションとなり得るのか。それには「安心安全」という点がまだ十分ではないように思える。少なくとも私には、「わたし」が解体され、機械的に反復と複製が可能なように再編成され、「クローン人間」ができる一連の出来事の受け入れ態勢はまだ整っていない。だがただ一つ、フィクションの世界の中で確かめられたことはある。それは最後にもう一つクローン人間が登場する作品を紹介しつつ、明らかにして締めくくりたい。
 『私を月まで連れてって!』(竹宮惠子原作)には、主人公に恋心を寄せる双子の男の子が出てくる。双子には親がなく、唯一の肉親は植物学者の祖父であった。双子の内、トーニは優等生で、デートの誘い方も心得ている。もう一人のニートは全く同じ容貌を持ちながらも頼りなく、女の子の扱い方も全く慣れていない。実はこの双子の片方が、両親を失い、いつか近い将来たった一人になってしまう孫のために祖父の手でつくり出されたクローン人間なのだが、どちらだと思うだろうか。私は本作を幼い頃から読んでいて、いつも不思議に思ったものだ。どうして優れている方が複製なのか。複製の方こそが劣っているべきではないのか、と。私が確かめられたのは、オリジナルに対して無条件に優位性を与えようとしていることであった。そしてこうした感覚が「わたし」を解体していく契機になっているらしい。


≪参考資料≫
長谷川一『アトラクションの日常』河出書房新社、2009年
ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクションT近代の意味』
 浅井健二郎編訳、久保哲司訳、筑摩書房、1995年
DVD『ルパン三世―ルパンVS複製人間―』東京ムービー新社、東宝、1978年
竹宮惠子『私を月まで連れてって!』第1巻、小学館、1982年

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